「つまり、xの解は3.1‥‥と。」
  「正解。」
  横合いから覗いていた男は、独り言ににやりと笑ってそう告げる。
  は顔を上げ、彼へと振り返り、少しだけ目を丸くしていた。
  「土方さんって、数学も出来るんですね。」
  「おいこら、そいつはどういう意味だ?」
  明らかに意外と言いたげな言葉に顔を顰めれば、は慌ててごめんなさいと言った。
  「別に土方さんががっちがちの頭の固い文系にしか見えないとかじゃなくて‥‥」
  「語るに落ちてるぞ‥‥」
  「わざとです。
  ってそうじゃなくて、文系の人って理系の問題が苦手っていうから‥‥」
  呟く彼女の言いたい事はよく分かる。
  土方は古典‥‥文系の教師だ。
  しかし、
  「あのな、おまえらが通ってきた道を俺も通ってここにいるんだよ。」
  彼女らが受けた大学の試験とやらを、土方も受けて教師になった。
  よほど専門的なものじゃないかぎり、解けない方がおかしいのだ‥‥と言うと、はそういえばと今更思いだしたように
  呟く。
  「土方さん、教師でしたね。」
  「喧嘩売ってんのか?」
  「いえそんなまさか。」
  は笑い、また視線を開いた問題集へと向ける。

  その瞬間、ふわりと真っ白い項を柔らかな髪をこぼれ落ちていく。
  目に毒だなぁと土方は内心で思った。

  季節は春から夏へ。
  日差しが厳しくなる中、世の人間は段々と薄着へとなっていった。
  それはもちろん、土方も、も同じ。
  室内は冷房を掛けているお陰で涼しいが‥‥外はうだるような暑さだ。
  少しでも涼を取り入れようと、身につけるそれもなんとも涼しげな装いに変わっていく。
  まあ簡単に言えば‥‥布地が薄くなっていくのだ。
  七部袖から、半袖、半袖からノースリーブ。
  通りを行く人の中には、それは洋服なのかと問いただしたいファッションの人間までいる。
  自由、万歳――

  「これで、終わり。」
  よし、とは文字を書き殴って、とんと最後にペンで紙を叩いて終わりにする。
  「行くか?」
  「はい。」
  促されは問題集を仕舞いながら男の後に続いた。
  静かなカフェの外には‥‥死ぬほど暑そうな夏の太陽が輝いていた。


  「ところで、どこ行きます?」
  並んで歩きながらは問いかける。
  「‥‥そうだな‥‥」
  久しぶりのデートだから少し遠出をしたい所だが‥‥
  「出来たら、屋内が良い。」
  暑さに弱い恋人は遠出よりも涼しい環境を求めているらしい。
  「わかったわかった。」
  じゃあ、涼しそうな所をいくつかチョイスしてみるかと足を止める。
  前方の信号が赤だった。

  「‥‥」
  二人並んで行き交う車と、同じく信号待ちをしている道路向かいの人々を眺める。
  とそこに、

  「‥‥すいません」

  背後から人を押しのけてやってきた女が、土方の隣に立った。
  背の高い彼がちらりと見れば、おいおいそりゃないだろと思うほど、胸元の切り込みが激しい服を着ていた。
  中に着ているのは水着だろうか、それを恥ずかしがることなくちらりと見せている。

  「‥‥」
  視線に気付いたらしい女性がこちらを見た。
  最初は不審げなそれも、見ているのが色男となれば別だ。
  途端誘惑するような甘い眼差しになり、艶っぽい唇を笑みの形へと変え、おまけに髪を正すふりをして、胸元をちらりと
  見せつけた。
  水着だか下着だか分からないが、それに包まれた、うっすらと日焼けした谷間は‥‥彼女なりに自信のあるものなのだろう。

  「っ」

  どんと後ろから見知らぬ誰かに押され、それで漸く男は信号が青に変わっている事に気付いた。
  それから、決まり悪そうなそれを手で半分隠す。
  別に誘惑などされてはいない‥‥
  が、隣に立っていた見ず知らずの女性の胸元を長い事見てしまった事は確かだ。
  それを目聡い自分の彼女はきっと気付いた事だろう。

  「その‥‥」

  何か話題をと口を開いた彼に、

  「Eくらいかなぁ?」

  隣でぼそっとが呟いた。
  なんの事かと視線を向けると、は人並みの向こう、紛れてしまう赤茶けた後ろ姿を見つめながら、

  「さっきの人の、胸のサイズ。」
  Eくらいかな?と彼女は呟く。
  土方は思わず無言でを見た。
  まさか怒って、わざとそんな話題を口にしているのかと思いきやそうではない。
  は本気で、彼女の大胆な格好に感心しているようで‥‥
  「色っぽいですよね‥‥ああいう格好。」
  私には出来ないなぁと呟いた彼女に、土方ははぁ、と深い溜息を吐いた。

  「おかしいだろ、その反応。」
  「そう?」
  男の呟きにきょとんとした顔で彼女は首を捻った。
  おかしいに決まってる。
  以前の胸チラ発言といい、今回のといい‥‥
  普通、自分の彼氏が彼女以外の女性の胸元なんぞを見ていたら、怒るのが当然だ。
  どこを見ているんだと詰られるか‥‥もしくは、どうせ私なんかと拗ねられるかのどちらか‥‥
  だというのに、この女と来たら、
  「だって、見ちゃうの仕方ないでしょ。」
  あんだけ大きく開いてたら、男じゃなくても見てしまうとは言う。

  確かにそうかもしれないけど‥‥

  「‥‥」
  土方は不満げに彼女を見た。
  本来ならば逆の立場だろうが、こうもが予想外の反応をするのではこちらの方が文句を言ってやりたい。

  「私以外見ないで――とか言わなくていいのか?」

  ぼそっと不満げに呟かれた言葉に、はあははと笑って、

  「そんな無理な事、言うわけないでしょ。」

  あっけらかんと言う彼女に‥‥男はなんとも複雑な気分になった。

  確かに。
  『自分以外を見ないで』なんてどだい無理な事だ。
  彼らは一人で生活しているわけではない。
  誰かと関わって生きている。
  その中には当然、男だけではなく女もいて‥‥なおかつ、土方は教師だ。
  たくさんの人間に囲まれて過ごしている。
  『彼女以外を見ない』
  という事は到底出来ない。
  それは勿論、も同じだ。
  『彼以外を見ない』
  という事は出来ない。

  「そういう言葉で、土方さんを縛り付けたくないですからね。」

  はにこりと笑った。
  理解のある彼女だと内心で苦笑を漏らしながら、でも、と土方は言った。

  「俺は縛り付けるけどな――」
  「俺以外見るなって?」
  「ああ。」

  それから、と彼は隣を歩く少女を引き寄せて、鮮やかに笑う。

  「俺以外に見られるな。」
  「それは――無理。」


  到来。




  ドライな彼女に土方さんはいつも
  がっかりさせられております。