「いつまで人を引っ張り回しやがるんだ」
 些か不機嫌そうに、土方は前を上機嫌で歩く永倉を呼ぶ。
「いい加減帰らせろ、俺の仕事はもう終わっただろうが」
「まあまあ土方さん。そう言わずに!」
 この先に良い店があるんだよと言う彼を心底呆れたような顔で見て、
「……」
 無言で踵を返した。
「ちょっと待ったぁ!!」
「これ以上付き合ってられっか」
「まあまあ待てって、土方さん! この先に本当に美味い酒と料理出してくれる店があるんだって!」
 一度くらい足を運んでみないと絶対損だ、と永倉は土方の首に手を回して引き留めながら必死に言う。男の眉間の皺が濃くなった。
「んなもん、俺はいらねえよ。おまえ一人で楽しんで来ればいいだろうが」
「だ、だから! 折角ここまで来たんだからちょっとくらい良いだろ!?」
「俺がいかなくても良いだろうが」
 それが困るのだと永倉は心の中で呟く。店の可愛い娘に彼を連れてきて欲しいとせがまれているのである。
 口籠もった瞬間に、それに、と土方は畳みかけるように続けた。
「あいつの事が心配なんだよ。もう終わったんなら、帰らせろ」
 あいつというのは土方の可愛い妻の事である。名前は。彼女は今、土方の帰りを彼の家で大人しく待っている。
 永倉が持ってきた仕事が泊まり込みで用心棒をするというやつで、仕事とはいえ十日も家を空けているのだ。その間にかつての仲間、今では良き友である斎藤に彼女を頼むと言ってはいるから大丈夫かとは思うが、とにもかくにも十日も彼女の顔を見ていないのである。
 そろそろ、限界だった。一刻も早く彼女の顔を見て、彼女に触れたい。
 かつて色事で慣らした土方歳三をそこまで思わせる女というのもいないだろう。だが、男にそう思わせるまでの良い女なのである。
「だ、だけどよ土方さん! たまにはにそう思わせたいって思わないのか?」
 まだ離さないというのならば拳骨の一発でもお見舞いするぞと拳を作れば、永倉がその拳ごと掴みながらこう言った。
「あんたばっかり、を想うのって不公平だろ!」
「……あ? 俺ばかりって、そりゃどういう」
 その言い方ではまるでが自分を想っていないようではないか。そんな事はない。彼女だって自分の事を心底好いている。まあ恥ずかしがり屋な性格故、分かりにくい事は確かだが。
「だから! たまにはあいつにやきもきさせるって言うのも良いんじゃねえか!?」
 長く離れている分だけ想いは募ると言うし、焦らせば焦らした分だけ強くなる。きっとそうすればも土方を求める気持ちは強くなるわけだから、いつもよりも素直に、可愛い姿を見せてくれるかも知れない。
「それは、」
 気持ちが揺らいだ。
 自分でも愚かだとは分かっていたが、ついその下らない口車に乗せられてしまった。
 だって彼が言う素直なというのが見たかったのだから。



「……帰ってこないね」
「ああ」
 縁側に二人は並んで腰を下ろし、静かな庭をぼんやりと見ていた。その手には湯呑みがあるが、既に中身はない。飲み干してしまってからどれだけ経ったか分からないが、とにかく長い事そうしていた。
「確か、土方さんは」
「一昨日には戻ってるはずだった」
 夫が言っていた言葉を思い出しながら言う。
 昔から彼の言う言葉を聞き間違えたり、聞き逃したりする事はなかった。命令を失敗すれば即座に組が崩壊しかねない、そんな任務に就いていたから。だから間違いじゃない。絶対。
 それでも彼が戻ってこない理由は、恐らく一つ。止むに止まれぬ事情があって戻って来られないのだろう。
「……」
 途端に険しい顔になるに斎藤は気付く。一昨日からずっとそんな顔をしていただろうか。彼が予定通りに戻ってこなかった時からずっと。
 彼の身に何かが起こった。そう思っているのだろう。
「心配するな」
 斎藤は緊張を解してやるように柔らかな声を掛けてやる。
「土方さんは、強い」
「……」
 その言葉を聞いて、の表情は緩んだ。無論信じていた。でも、何の連絡もなくて徐々に不安の方が膨らんでいったのだ。
「そう、だよね」
 こくりとは頷き、強張った指先を解く。
「歳三さんは……強いもんね」
 なんせ鬼の副長だった人だ。そんじょそこらの人間にやられるわけがない。
「ああ、そうだ」
 どこか言い聞かせるような響きがあるが、それでも構わない。斎藤はこくりと頷き、また庭の方へと視線を向けた。
「じゃあ……なんで帰って来ないんだろ?」
 再び沈黙が二人の間に落ちる前にぽつんと小さな呟きが落ちる。
 土方は強い。そう簡単にやられたりはしない。
 では何故、彼は戻ってこない。約束の日になっても。何の連絡も寄越さずに、何故戻ってこないのか。
「それは、」
 斎藤は口籠もった。彼とて答えを知らないから当然の事。二人はまた同時に黙り、やがて、は自分でも信じられない言葉を吐いた。
「まさか、浮気……」
 あり得ない。
 いや、あり得ないわけでもない。何故なら人の心と言うのは変わるもの。自分以上に良い女がいれば彼が心を動かされる事だってあるはずだ。しかも自分という女があまりに魅力的でないならば尚のこと――とこれを男が聞いたらまるで自分の事のように怒っただろう。人の気持ちも知らずにと。
「いや、それはあり得ん」
 異様に真剣な眼差しで湯呑みと睨めっこする彼女に斎藤は慌ててそう言った。聞こえているかは分からないが、
「あの人はあんたを好いている」
 安心しろ、大丈夫だと励ましている。
「と、とにかく、俺は一度新八を訪ねてみようと思う」
 ここであれこれ考えていても仕方ない。当人に聞けばすぐに分かる。なんだそんな理由だったのかと拍子抜けするだけだ。
 幸い彼らが警護に当たっている商家の場所は知っている。今すぐに行ってくると腰を上げるのをは慌てて私もと追いかけようとした。
 その時だ、
「ただいまー」
 永倉の声が玄関先から飛んできたのは。
 正確には彼の家ではないのだからそう声を掛けるのはおかしい。だが、永倉がやって来たと言う事は、彼も一緒というわけで。
「っ!」
 二人は顔も見ずに一目散に玄関口へと走った。
「うおっ!?」
 ほぼ同時にばたばたとたどり着けば、駆けてやってきた二人を見て永倉は目を丸くしている。その隣に立つ男も同じで、
「どうした、血相変えて」
「……歳三さん」
 怪訝そうに眉を寄せて訊ねてくる夫の姿に、はほうっと安堵の溜息を漏らした。そのまま気が緩んで、へたりこみそうになる。
「なんだなんだ、熱烈な出迎えだな」
「それは、予定とは違ったからだろう」
 茶化す永倉に斎藤の双眸が細められる。
「一体何があった?」
 何か問題でもあったのかと訊ねれば、も聞きたげに視線を向けてくる。どこか逼迫した面もちの彼女だ。これはもしかしたら見事に策に嵌ってくれたようである。
「何って、なあ?」
 意味ありげな視線を永倉が土方に送る。その視線を受けても斎藤も彼を見た。
「土方さん、女の子に囲まれて大変だったんだぜ」
「おい、新八」
 突然そんな話題を切り出されて土方は眉根を寄せる。
「そりゃもう女の子にきゃあきゃあ言われて、あちこち引っ張りだこ。おまけに熱上げて追いかけてくる女の子もいてそれを振り切ってくるのが大変で、おまけに……」
 芝居がかった口調で言ってはいるが嘘ではない。あの日、良い所だと連れて行かれた店で女に囲まれたのは事実だ。熱を上げて追いかけてきた女がいたことも。だが土方は妻がいるのだときっぱりと断ってきた。意味ありげに永倉は言っているが、おまけなど何もない。
 別に彼女を不安にさせるつもりはないのだ。ただ、離れている事でほんのちょっと素直になって甘えて欲しいと思っただけで、それ以上は――
「女の子と、一緒だったの?」
 固い声で妻は訊ねた。
「女の子といたから、遅くなったの?」
 咎めるような眼差しを向けて、彼女はもう一度訊ねる。
 それは嫉妬なのだろうか? いもしない女に嫉妬してくれているのだろうか? 自分が他の女といた事を嫌だと思ってくれたのだろうか?
 自分が、他の男に嫉妬するように、彼女も。
「……気になるか?」
 ついと口元に笑みを浮かべて訊ねてしまったのは意地が悪いと認めよう。彼女が嫉妬をしてくれた事が嬉しくて嬉しくて、ついつい苛めたくなってしまったのは自分が悪い。
 でもだからって、
「い、いえ、別に!」
 なんて力一杯否定してなんて事無い顔で笑う事は無いじゃないか。さっきまであんな怖い顔をしていたくせに、何もなかったような顔をする事はないじゃないか。
「歳三さんが女の人と楽しくしてたって別に気にしません」
 全然全く気にしないと、強調して言う事も無いじゃないか。
気にしていたくせに嘘まで吐く必要は無いじゃないか。
 は全然平気です、大丈夫ですと言って、最後にきっぱりとこんな言葉を吐いた。

「私も、一と色々楽しい事してましたから!!」


 一瞬、空気が凍り付いた。
 ぴきんと嫌な音を立てて、夏の蒸し暑い空気が凍った。
 その瞬間に斎藤と永倉が青ざめたのが分かった。あれ、何か変な事を言っただろうかとは自分の発言を思い出そうとしたが生憎と何を言ったか覚えていない。なんだか勝手に口からぽこぽこと出ていた気がする。はて、今自分は何と言っただろうか? 分からない。
 でも多分、何か拙い事を自分は口から出してしまったのだ。
 だから夫は間抜けな顔をして、それからその肩をふるふると震わせているのだ。
 まるでそう、怒っているみたいな――

「俺の留守中になに別の男と楽しくやってやがるんだ、てめえはぁああああ!!」
「ひぎゃぁああああああ!?」

 怒声を上げ、荷物よろしく妻を抱え上げるとどすどすと屋敷の奥へと引っ込んでいて、ぴしゃんと襖が閉ざされた。
 それを呆然と見送っていた斎藤と永倉は暫し、その場で立ち尽くし、
「え、ええと……帰るか」
「そ、う、だな」
 馬に蹴られる前に退散だと、静かに背を向けるのだった。


  口は災いの元


  二人共意地っ張りの似たもの同士。
  ついつい意地を張って最終的に墓穴を
  掘るのはの方です。