「俺の物になれ」

  そう言って、忌まわしい鬼はの言葉を塞いだ。
  挑発的な、あの赤い相貌を決して閉じることなく、最後の瞬間まで自分に焼き付けるように見つめたまま、己が唇で
  の唇を塞いだ。
  口づけ如きで死んでしまいたくなるほど、は初な娘ではない。
  なのに何故だろう?
  この風間という男に口づけをされることは、まるでその身を好き勝手に犯されているような錯覚を覚えた。
  その眼差しが、自分を征服するかのようだからなのか。
  この身体の隅々まで我が物にしようと‥‥するようだからなのか。



  どこをどう走ってきたのか分からない。
  恐らくその格好では大門を出ることも叶わなかっただろうに、自分は花魁の格好で、壬生まで走ってきていた。
  引きずっていたらしい着物の裾は泥で汚れ、裸足の足は小石などで切ったのだろう、今更のようにずきずきと痛みが走っ
  て、は顔を痛みに顰めた。
  顔を顰めたのは痛かったからだけではない。
  自分の浅はかさにも気付いてしまったからだ。
  無断で花街を抜け出してしまった。恐らく、向こうでは大騒ぎになっている事だろう。
  騒ぎを起こせば最終的に新選組に迷惑がかかる。
  それはあってはならないことだ。
  だから、今までどんな事があっても、騒ぎを起こすことだけは避けていたというのに‥‥
  「私の馬鹿」
  小さく呟いた言葉は掠れて消えた。
  唇を動かした瞬間に、皮膚に感触がよみがえった気がして、は慌てて己の唇を手の甲でぬぐった。
  何度も何度も。
  まるで汚いものを拭うかのように。
  「!?」
  そうして何度か擦った後で手を離せば、手の甲にべったりとついた赤い色にはぎょっとする。
  紅をさしていたのだから当然の事なのだが、それが、彼女にはあの男の瞳の色に見えて、
  「?」
  「っ!?」
  汚れてしまった自分の身体に酷く嫌悪し、そのまま喉を掻ききって死んでしまいたい衝動に駆られたのを、横合いからか
  かった声が押しとどめた。
  はっと顔を上げてそちらを見て、だが、そちらを見てしまってから後悔する。
  そこに立っていたのは、
  「ひじかた、さん」
  こんな、みっともない姿を誰よりも見せたくない相手だったからだ。
  「おまえ、なんでそんな格好で‥‥」
  本来ならば花街で怪しい連中に探りを入れているはずの彼女が、そんな格好でここに立っている事が土方には奇妙に思え
  てならない。
  奇妙さは増すことに、彼女は裸足で、しかも口元は紅で赤く汚れている。
  まるで、あそこから逃げ出してきたみたいだ。
  実際、色町というところは煌びやかな外観とは違って、醜い一面を持ち合わせている。
  ほとんどの妓女が『売られてきた』という状況からして分かるものだ。売られてきた彼女らへの扱いは店の人間も、客も
  同様に酷い物で、一人の人として見るものは少なかった。
  加えて妓女同士の諍いも絶えず、男の取り合いやら、人気や外見への妬みから嫌がらせなども珍しい事ではない。
  死んでやりたいと思うほど悔しい思い、悲しい思いをして、実際に何人もの妓女が自害したり、殺されたり、という事件
  があるのを皆が知っている。
  は妓女として売られたわけではなく、任務の一環として潜り込んでいるだけに過ぎないが、それでも嫌な目に遭うこ
  とはあるだろう。
  勿論、あったとしても悟らせないし、文句の一つも言わない。
  そんな彼女が、任務を放り出してここに来た。
  それはつまり、

  「何かあったのか」

  険しい表情になり、土方は訊ねる。
  するとどういうわけか、の肩がびくりと大げさに震えた。
  彼女らしくない動作だ。
  もし、何かがあったとしても普段の彼女ならば「何かってなんですか?」と笑いながら返しただろう。そんな、あからさ
  まに男に勘付かせるような動作はしない。
  土方は確信した。
  『なにか』があったと。
  彼女が嘘で塗り固められないほど、動揺する何かが。
  「な、んにもっ」
  じゃりと砂を踏みしめて一歩を踏み出せば、はっと我に返ったが慌てて頭を振る。
  が、今更取り繕っても遅い。
  そんなもの、信じてやれるほど男は間抜けでも冷たい男でも、出来た男でもないのだ。
  「あ、あの、私‥‥」
  大股で近づいてきた男には顔を向けられない。
  何故か顔を見るのが怖くて、辛くて、横を向いたまま、あの、そのと口ごもる。
  何を言って誤魔化せばいいのだろう。
  今まで自分はどうやって誤魔化せていただろう。
  分からない。
  分からなくて頭の中が真っ白になって、
  「
  「っ」
  それでも必死に何か言わなければ、繕わなければ‥‥そう焦る気持ちは静かな呼びかけで一瞬にして凍り付く。
  決して彼に悟られたわけではない。
  だけどどうしてだろう。
  全てを見透かされたような気持ちになる。
  あの鬼に、出会ってしまった事。
  あの鬼に、触れられてしまった事。
  それ故に、逃げ出してしまった事。
  何を言ったわけでもないし、彼に見られたわけでもない。
  だから知るわけもないのに何故か、彼には全てを知られてしまったような気がして。
  「――!」
  はわけもなく逃げ出したくなって、踵を返した。

  あの鬼は敵だ。
  いずれ斬らなければならない敵。
  そんな男に、自分は何をされた?
  敵である男に触れられ、あまつさえ、唇まで奪われ‥‥斬りつけることも出来ずに逃げ出してきた、なんてお笑いぐさだ。
  恥ずかしい以上に腹立たしい。
  否、それ以上に、

  ――けがらわしい――

  「!」
  逃げ出せたのは数歩だけ。
  所詮重たい着物を着た女の足で逃げ切れるわけもない。
  あっという間に追いつかれ、腕を捕まれ回り込まれて阻まれる。
  「はな、してっ!」
  はその腕を振り解こうと藻掻いた。
  その声も力も妙に弱々しくて、土方は思う。
  「出来るわけねえだろうが」
  この馬鹿、と吐き捨て、抵抗をねじ伏せる。
  痛いと抗議の声が挙がったが、聞き入れずに更に力を入れれば痛みに耐えきれずにの顎が上がった。
  それをすかさずに手で捕らえる。
  しまったと思ってももう遅い。
  見開く瞳には、同じく見開かれた紫紺の瞳が映り込んでいた。それはつまり、彼も同じように自分を見ているという事。
  察しがいいこの男の事、顔を見られただけで悟られてしまうことだろう。
  口元を真っ赤にするほど紅を擦り取った理由など簡単に。

  「誰、だ」

  次の瞬間、背筋が震えそうなほど恐ろしい声が男の口から漏れた。
  それと同時にぞろりと、男の身体から凍り付いてしまいそうな冷気があふれ出した気がしたのは‥‥恐らく彼の怒りのせ
  いなのだろう。

  「誰がてめえに勝手な事をしやがった」

  『俺のここに』と親指が唇をなぞる。
  恐ろしい程に怖い形相をしているくせに、その指使いはやけに艶めかしくて‥‥はぞくりと背筋が恐怖とは違うもの
  が駆け上がるのを感じた。
  それだけでどうにかなってしまいそうで、は恐ろしかった。

  「
  「っ」
  「答えろ」

  そして、
  男は留めでもさすみたいに鋭くの瞳を見つめて、突き付ける。
  その怒りの正体がただの嫉妬であることを。
  自分の物であると思っている彼女を、他の男に手出しされて激しい怒りと嫉妬心を覚えているのだと。

  それをまざまざと突き付けられ、は陥落せざるを得なかった。

  「‥‥ごめん、なさいっ」
  くしゃりとの顔が悲しみと後悔に歪む。
  蹂躙してやりたくなるほど美しい悲しみの表情に、男の背筋がぞくりと震え、その身体の芯には熱がともった。
  泣き叫ばせてやりたい衝動を息を飲み込んで堪えながら、話せともう一度低く呻くように告げれば戦慄く唇が音を紡ぐ。

  「風間の、やつが」

  島原に来て。

  その名前だけで怒りで目の前が真っ赤に染まるというのに、あの憎々しい鬼は人のものに手を出していったというのだ。
  奪われたのは唇だけかもしれないが、それだって土方には許し難い。
  今すぐに取ってかえってあの鬼を斬り殺してやりたいほどの衝動が男を襲う。
  だがそれよりも、
  「ごめんなさいっ」
  悲痛な声で謝る彼女をどうにかしてやりたいという衝動の方が男を強く突き動かした。

  「っ!?」
  土方はぐいっと強引に腕を掴み、引きずるようにして唐突に歩き出す。
  「ひ、土方さん!?」
  迷いもせず屯所の中に入ろうとするのをは驚きの声を上げて制する。
  男所帯である屯所に女を連れ込むわけにはいかないし、何よりは男として新選組に与しているのだ。
  こんな格好を誰かに見とがめられれば女と露見しかねない。
  だが、土方は黙ってついてこいと強く言うだけで聞き入れず、どすどすと大股で更に奥まった場所へと突き進んでいって
  しまった。
  誰かに見られやしないだろうか。
  そんな事を考えたものの平隊士が寄りつかない、奥まった患部の部屋の更に奥。
  土方の自室へと連行され、襖を開けると共に放り投げるように乱暴に放られ、ぴしゃりと閉めると同時にのし掛かられ、
  血腥い獣のような眼差しでにらみつけられは息を飲んだ。

  「二度と、他の男にくれてやるんじゃねえ」
  触れる吐息は、熱く、濡れている。
  着物の上を這う大きな手は妖しく揺れている。
  身体の奥底はそんな彼に、心底興奮して、
  「おまえの全ては俺のもんだ」
  身勝手な言葉で縛るそれにさえ、心底歓喜して、
  「――は、い」
  その全てを受け止めるように小さく頷き瞳を閉じる。

  押し殺したような声が漏れる静かな室内。
  衣擦れの音が何度も何度も響き、微かに濡れた響きが男を、女を、追いつめる。

  「声、あげるなよ」

  べろりと獣が獲物を前にして舌なめずりをするように赤い舌で己が唇を舐める男の言葉に、は涙に濡れたそれを向け
  てならばと乞う。

  「あなたの唇で、私の声を封じて」

  懇願なのか誘惑なのか。
  赤い唇で紡いだ女を男はにやりと意地悪く嗤い、二度と他の男に触れさせまいと己の唇で塞いだ。
  いっそ、
  噛み千切ってやれればと思うほど、その果実は柔らかく、甘美であった。


  
断の果実




  雪華録の平助編を見て、書きたくなった話。
  もういっそチューされて、その後めっちゃ嫉妬
  すればいいのにーって←