その日。
  帰ってきた少女の有様に、一同は愕然とした。

  夕飯の材料を買ってくると言った彼女は、夕飯の時間に間に合わなかった。
  用事をすっぽかすような子供ではないはずだった。
  何かあったのだろうかと、一同がやきもきをしていると、ただいまもどりましたと玄関口で控えめな声が聞こえてきた。

  ばたばたと一同が玄関口へと走ったが、おかえりの言葉が喉の奥に引っ付いてしまうほど‥‥彼らは驚いた。

  玄関口に佇む少女は‥‥なんとも言えない様相をしていた。

  「‥‥すいません、遅くなりました。」

  非常に申し訳なさそうな顔をして、笑う。
  笑った瞬間、ぽた、とその白い肌を茶色い水がこぼれ落ちた。
  泥水だった。
  それは彼女の飴色の髪を汚し、彼女の着物も汚していた。

  まるで泥水を頭から被ったかのように、彼女は泥と水とで全身を濡らしていた。

  立ちつくす彼女の足下には水たまりが出来ている。

  「‥‥一体何があった?」

  一同呆気に取られる中、最初に我に返ったのは土方だ。
  途端眉間に皺を寄せ怪訝そうな顔でこちらを見つめてくる。
  はあははと笑って頬を掻いた。

  「溝に嵌りました。」

  答えに、次に我に返った沖田がすいと目を眇める。

  「じゃあ、その打ち身はなに?」

  指摘されたのは彼女の手足だ。
  泥水を被って汚れているその下。
  白いから余計に目立つのだろう。
  大小様々の打ち身が見えた。

  「転けた。」

  は短く答え、腕を自分の手で隠す。
  隠した所で反対の手にも痣が残っている。

  「そりゃ‥‥転けたって痕じゃねえだろ。」

  今度は原田が呻くように零した。
  問いかけるというよりは呟きに近い。

  の身体に残る痣は、大小様々だが、その中に細長いものがあった。
  その太さは、丁度‥‥木刀の太さに似ている。

  そこまで言って、
  彼らはもう一度口を噤んだ。

  「ごめんなさい‥‥」

  彼らから滲み出る苛立ちに気付き、はそれが己のせいだとすぐに察知する。
  口から出た謝罪の言葉に、彼らは一層自責の念に駆られる事となった。

  彼女は転けたのでも溝に嵌ったのでもない。
  ――殴られ、
  故意に溝に落とされたのだ。

  「‥‥長山って人‥‥だっけ?」

  瞬間、沖田は犯人に目星をつけたらしい。
  つい数日前、町中で喧嘩をした相手だ。
  喧嘩というほどのものでもない。
  彼は一方的につっかかってきて、しかし、沖田や原田にあっさりと倒されたのだ。
  どこの道場の門弟だったか覚えてはいないが、自分は優秀な剣客だと豪語していたのを覚えている。
  実際は、刀もまともに握ったこともないどこぞのお坊ちゃんだったのだけれど‥‥
  それ故に矜持を傷つけられ、
  その仕返しに、を選んだということだろう。

  「あんの野郎‥‥」

  ぎり、と原田は奥歯を噛みしめた。
  無抵抗な子供を殴りつけるなど武士の風上にも置けない。
  実際、が戦うつもりならば瞬殺だっただろうが。
  それにしても‥‥

  「なんで、やり返さなかったの?」
  沖田は裸足のままの傍へと歩み寄ると、取りだした手拭いで彼女の顔を拭った。
  見上げれば不愉快そうな顔をしている。
  「ならあんなのどうってことないでしょ?」
  例え素手であっても、相手の急所を確実について息の根を止めることが出来るほどの手練れだ。
  わざわざ殴られてあげる必要なんてない。
  あの男を喜ばせてどうするのさ、と言えば、はこちらを見上げて、至極当然とばかりに口を開いた。

  「問題を起こすと‥‥面倒でしょう?」

  その言葉に、
  一同は目眩を覚えた。

  ああ、そうだった。
  この少女はそういう子供だった。

  自分の事には頓着をしない。
  全ての基準が近藤で‥‥いや、近藤達で、彼らにとって最善な事を迷うことなくやってのけるのがという少女だ。
  ただでさえ試衛館の人間は揉め事に巻き込まれることが多い。
  これ以上負担を増やしてはいけないと、そう思ったに違いない。
  こと子供にやられたとあっては面目が立たない。
  相手は躍起になって潰しに掛かるだろう。
  それは避けたいところだった。
  だから、甘んじて受けた。
  別段、命には問題が無いのだから。
  命に関わるならば反撃をするつもりだったが、相手にはそこまでの度胸はない。
  ちょっと痣が出来る程度なら、揉め事を大きくするよりもただ耐えている方がいいとそう思ったのだ。

  しかし、

  「‥‥」

  今まで無言だった永倉が突然、引き返した。
  どすどすとやたら重たい足取りで戻り、だがすぐに戻ってきた。
  手には刀を持っている。

  「新八さん、どこ行くの?」
  「決まってる。」
  沖田の問いに押し殺した声が返ってきた。
  彼は顔を真っ赤に染めて、怒りでぎらつく瞳を真っ直ぐに向けて、言った。
  「たたきのめしてくる。」
  誰を?
  訊ねなくても分かった。
  は内心焦り、彼の手を取って首を振った。
  「新八さん、私平気です。」
  大丈夫、と言う彼女の口元に痛々しい痣が残っている。
  それを見て永倉は顔を歪め、何故か彼の方が痛そうな顔をした。

  「‥‥悪い、
  そりゃ無理だ。」
  ぎり、と奥歯を噛み、永倉は彼女の手をやんわりと外す。
  その手が震えていた。
  どうして?と視線だけで訊ねるが、もう、彼は目を合わせてくれなかった。

  「こいつは、俺たちの我が儘だ。
  おまえが気に病むことはねえよ。」
  そんな彼に代わり、今度は原田が答える。
  振り返れば彼も手に槍を持っていた。
  剣呑とした瞳を闇へと向け、彼は口元だけを歪めて笑っている。
  「俺たちが好きでやってることだ。」
  おまえのせいじゃない、と原田はもう一度言った。

  だから、
  どうして?

  は横をすり抜けていった男達の背中に問いかける。

  どうして。
  どうしてそんな事をするのだろう。
  平気だって言ってるのに。
  自分は平気だって、大丈夫だって‥‥言ってるのに。

  「、ほら、こっち見て。」

  二人の背中をもどかしい気持ちで見送る彼女を、いつもよりも優しい力で振り返らせた沖田が顔の泥を拭ってくれる。
  ぴり、と皮膚が引きつって、は僅かに目を眇めた。
  それを痛みの反応だと気付いた沖田は、不愉快そうに眉を寄せた。
  苛立つあまり、自分の力が強かった事に対して。

  「言っとくけど‥‥」

  不愉快な顔で、いつもの声で彼は言った。

  「だけのものじゃないんだからね。」

  彼女は、彼女だけのものではない。

  「‥‥」
  どういう事?
  「言葉の通り。」
  「だから、意味が‥‥」
  「近藤さんが。」
  分からないと呟く言葉を、遮られた。
  口を噤むと沖田は乾いて張り付いた泥を爪でかりかりと剥がしてくれる。
  「近藤さんが、もし怪我したら、どうする?」
  「相手を殺す。」
  躊躇う事無く、その口から物騒な言葉が漏れた。

  怪我なんだからせめて相手にも同じ怪我を負わせるくらいにしろよ、と土方は心の中で呟くが、今はとりあえず黙って
  聞いておくことにしよう。
  沖田が言いたい言葉は、自分が言いたい言葉でもあるから。

  「それと同じだよ。」
  彼ははぁと溜息を一つ零した。
  それから視線を同じ高さに合わせると、しかとその瞳を見据え、子供に言い聞かせるみたいに、言う。

  「も、僕たちにとっては大事な人間なの。」

  傷つけられたら、相手に仕返しをしてやりたいと思うくらい。
  痛めつけて、二度と手を出す気を起こさせないようにしたいと思うくらい。

  いや、本当は、
  傷つけたくなんかない。
  本人は嫌がるかも知れないけど、
  守ってあげたいと、思うくらい。

  「大切。」

  大切な人。

  「‥‥」
  そんな風に言われて、少女はぽかん、と口と目をまん丸く見開いた。
  ああ、そんな顔をすると思ったと、彼は僅かに顔を歪めて笑う。

  自分が彼らにとって「大切な人間」であるということを、微塵も思わなかったらしい。
  どこの馬の骨とも知れぬ、いなくなっても構わない人間だと、本気で思っていたのだと。
  それが酷く癪に障る。
  確かに、彼らに血のつながりはない。
  家族でも何でもない、赤の他人だ。
  でも、そんなものが無くても、きっと、家族よりも理解し合える相手だと彼らは思っている。
  そして、
  血のつながりが無くても、
  彼女を、身を挺してでも庇ってやりたいと思うのだ。

  そんな存在に、いつの間にかはなっていた。

  同じなのだ。
  が近藤を、土方を、沖田を、原田を永倉を。
  彼らを守りたい、そう思うのと同じ。

  いつの間にか、そうなっていたのだ。
  その関係を作ったのは、確かに彼女自身なのだ。

  強さだっただろうか。
  優しさだっただろうか。
  生き様か、それとも、もっと別のものか。

  いや単純に‥‥
  好きだからと言う理由でいいのだ。

  傷つけたくない。
  だって、
  好きだから――

  「‥‥総司‥‥」
  困惑した顔で、少女はこちらを見た。
  最近になって漸く感情を見せるようになってきたのは、彼女なりに気を許している証拠なのだと、彼は思っている。
  それが嬉しいと‥‥思った。
  少しでも気を許してくれるなら。

  まあ、まだまだ全然だけどね――

  「そんな事も気付かなかったの?」
  馬鹿だな、と沖田は額を一度、ついた。
  いた、と素直に声が出て、彼はつい笑みが浮かんでくる。
  「は僕たちにとって、なくてはならない存在なんだよ。」
  だから、傷つけられたら怒るし、仕返しもする。
  「君が僕たちを想ってくれるのと同じ。」
  同じなんだよ、と彼は言い、ゆっくりと首だけを振り返った。

  「そうですよね?」
  土方さん――

  悪戯っぽい表情で問いかける彼に、土方は腕組みをしたまま、溜息一つ。

  やがて眉間の皺を解くとほとほとあきれ果てたという顔で、

  「そういうことだ」

  と肯定を示す。

  好きだとかそういう言葉は照れくさくていえやしないが‥‥
  彼の言うとおりだと彼は頷いた。

  「ってわけだから‥‥」

  それから、がりがりと頭を掻いて、

  「次からもし手を出されたら遠慮無くやっていいぞー」

  俺たちに悪いと思うのならばたたきのめしてやれ、と。

  土方はにやりと獰猛な笑みを浮かべてみせた。


  の痛みはぼくらの痛み




  まだ、が可愛かった頃の話(笑)
  この頃は猫っかわいがりされておりましたが、
  同時に彼女自身は自分について今以上に頓着
  しない子供でした。
  殴られてもやりかえさないので、よく原田や
  永倉がやり返しに行ってたようです(笑)