明治二年、五月。
二年にも渡った新政府軍と旧幕府軍との戦いが集結した。
北の大地、蝦夷にまで攻め込んで、そこでようやく、勝敗が決まった。
勝利したのは新政府軍。
投降した旧幕府軍の中に‥‥の知る人は少なかった。
皆、
戦場で果てた――
そう、聞いた。
「冷たい女だな。」
原田は男が零した一言になんだ?と首を傾げた。
彼は隣の家に住んでいる、清太と言い青年だ。
原田よりは少し年下だろうか‥‥人なつこく、情に厚い、気のいい男である。
いささか短気ではあるけれど。
「冷たいって、何が?」
清太の零した言葉に、なんのことだと原田が問い返すと、彼はむっと眉根を寄せ、不満げに言う。
「あんたの嫁さんだよ。」
「ああ‥‥の事か?」
そう、と彼は頷く。
確かに原田の妻はという女性だ。
だがしかし、彼の言う「冷たい女」というのには当てはまらない。
原田は僅かに眉根を寄せ、瞳を眇める。
それはもう愛する人を貶されて不満ありきという風に。
「だってよ!あいつ、新選組の連中が死んだって聞いたときどんな態度だったと思う?」
「どんなって‥‥」
「ただ笑って「そうですか」だぜ!」
普通、泣くだろうと清太は言った。
大切な人が死んだと聞けば‥‥悲しくて泣くだろうと。
旧幕府軍が負けたという報せを聞いたのは、戦いが集結して三月も経ってからだった。
何故ならば彼らは日本を離れていたからだ。
勝敗が決まる前に大陸へと渡った彼らが日本の状況を知ることは出来ない。
恐らく、彼らの後に渡ってきた男が教えてくれなければ‥‥どうなったかなど一生知らず終いだったかもしれない。
旧幕府軍は負けた。
そう、
新選組が負けたのだ。
の大切な人たちが‥‥負けたのだ。
負けた。
いや、
死んだ。
生き残った者は少ない。
明らかに死んでいると分かっている人の中に、の大切な人がたくさんいた。
とても大事な人たちが死んだと聞かされた。
彼女にとっては、家族も同然の人たちが。
死んだと。
「俺はあまりの壮絶な最期に涙したもんだけどな。」
思い出してぐずっと鼻を鳴らす清太は、それなのに、とぶつくさと愚痴る。
「涙一つ見せずに笑ってるってなんだよ。
死んで欲しくない人だったんじゃねえのかよ。」
は彼の言うとおり、涙一つ見せなかった。
本当に、ただ、笑って、
「そうですか」
と言っただけだった。
その瞬間、その場にいた全員が何故と思った。
どうして、こんな悲しい報せを笑って聞けるのかと。
だけど、彼女は、泣かなかったのだ。
「人形みてえな顔してるって皆言ってるけど‥‥あいつは本当に人形だ!
人の血なんざ通ってねえんだよ。」
確かに彼女は人ではなく鬼だ、が、
「あいつは、冷たい女じゃねえよ。」
原田は知っている。
という人がどれほど仲間を、家族を、大事に思ってきたか。
女の身でありながらその身を犠牲にしてまで戦い、守ろうとしたかをこの男は知らない。
大切な人が死んだと聞いて‥‥平然としていられる人間ではない。
たぶん、
彼女は‥‥
「でもさっ‥‥」
清太は家の戸を開ける原田の後についてきてまで、不満を零した。
情に厚い男は我慢ならなかったのだ。
平然とした顔をしているを見て、一言、びしっと言ってやりたかったのだ。
しかし、
「‥‥あれ?」
戸を開けて「帰ったぞ」と告げる夫の声に、妻の返事はなかった。
いつもならばぱたぱたと軽い足取りでやってきて、笑顔で出迎えてくれるというのに。
「‥‥いねえ‥‥のか?」
しん、と家の中は静まりかえっている。
まさか出掛けているのだろうか?
いや、そんなはずは‥‥
は。
後ろで笑い飛ばす声が聞こえた。
清太だった。
「やっぱり冷たい女だ。
疲れて帰ってきた夫を出迎えもしねえなんて。」
聞き捨てならない科白だった。
恐らく、原田もそれに気付かなければ振り返って殴り飛ばしていただろう。
だが、
―― ――
微かに届いた空気を震わせる小さな音に、彼ははっとして顔を上げる。
清太が後ろで何かを言っているが、それはもう聞こえない。
彼にはその声よりも、風の音よりも、虫の音よりも、それがはっきりと聞こえた。
とても、とても、小さな音だったのに。
「清太。」
原田は静かに彼を呼んだ。
彼は、言った。
「あいつは‥‥冷たい女なんかじゃねえ。」
ひ。
っ。
ひ。
まるで音を立てる事さえ厭うように、押し殺した音が聞こえる。
原田は足音一つ立てずに音を辿った。
ひ。
ひ。
微かに空気の乗る音は引きつって‥‥時折苦しそうな音に変わった。
ひ。
っ。
廊下を行き過ぎ、
奥の部屋、
二人の寝室、
誰もいないはずのその部屋から、
聞こえる、音。
部屋の隅っこ。
音は、
そこから漏れていた。
原田は困ったように笑いながら、そっと、取っ手に手を掛けた。
そして、
ゆっくりと開く。
薄暗い、狭いそこ。
まるで閉じこめられた子供のように、
膝を抱えてそこに小さくなっていた。
まるで、
誰の目からも隠れるみたいに。
「――」
呼びかけに、琥珀が大きく見開かれた。
「こんな所にいたのか。」
と呼びかければ、ぱちくりと瞬き一つ。
瞬間、見開かれた瞳から、
そっと、
滴が落ちた。
零れたそれは白く滑らかな頬を伝い落ち、やがてぽたりと抱えた膝の上に落ちた。
「出て来いよ。」
そっと屈み込んで、手を差し伸べる。
伸ばされたそれを見て、は怯えたような表情でゆるっと頭を振った。
そしてぎゅっと更に小さくなるように、身体を丸める。
そんな彼女を見て、原田はそっと目を眇めた。
「一人で堪えなくていい。」
原田は決して、強引に手を掴もうとはしなかった。
ただ、
彼女を真っ直ぐに見て、
もう一度、優しく言った。
「おいで‥‥」
「――!!」
ひ、と震えた声が空気を震わせた。
次の瞬間、の顔は泣き顔にぐしゃりと歪み、
まるで飛び込むかのように、男の胸に縋ってきた。
この時になって漸く、彼女が必死に何かを掴んでいた事に気付く。
それは‥‥
汚れた、
浅葱色。
「‥‥辛かった、な。」
「う、ぁっ‥‥」
震える背中をそっと優しく撫でればの口から堪えきれないと言う風に声が上がる。
「俺が、いるから。」
「さ‥‥の‥‥さっ‥‥」
「泣くなとは言わない。
ただ‥‥」
ただ、と原田は腕の中にいる人を苦しげな眼差しで見つめて、頼むからと願った。
「一人で、泣くな。」
さのさん。
と苦しげに零れる吐息の合間に名前を呼ばれる。
どうして彼女が自分を呼ぶとそんなに甘く感じるんだろうかと思いながら、原田は顔を上げてなんだと真っ直ぐに琥珀を
覗き込んで訊ねた。
一方の彼女は琥珀をしかと閉じてしまっていて、その眦からは涙が後から後から溢れて、零れている。
さのさん。
と譫言のように彼女は名前をまた、呼んだ。
「なんだ、。」
どうしたと訊ねながら眦に口づけを落とせば、華奢な身体がびくりと震えた。
震えは二人が繋がった場所まで響き、男は小さなうめき声を漏らす。
「。」
「さの‥‥さ‥‥」
「なんだよ、。」
「さ‥‥ぁっ‥‥」
ゆるっと緩やかに動かれ、は喉を逸らす。
悲鳴とも取れる嬌声を上げ、しかし、縋るように脚を男の腰に絡ませながらはまた「さのさん」と呼んだ。
「。」
「さ‥‥」
「俺を見ろ。」
「‥‥ん‥‥」
微かに睫が揺れ、涙で濡れた瞼がゆるやかに開かれる。
現れた琥珀は美しく濡れ、原田をしかと見上げた。
さのさん‥‥
とはもう一度呼んだ。
「‥‥お願い。」
きゅと絡めた五指には力を込める。
お願いと彼女は懇願した。
琥珀を歪めて、泣き出すみたいな顔で、懇願した。
「ひとりに、しないで‥‥」
あなたは、私を置いていかないで。
は願った。
もう、自分には彼しかいないから。
彼を失ったら今度こそ‥‥笑ってなんかいられない。
声を限りに泣き叫んで、自分だって喉を掻ききって死んでしまうに違いないから。
だから、
だから、
「おねが‥‥」
さのさん、と悲痛な響きで告げられる。
原田はじくりと胸がひどく痛むのを感じた。
苦しくて、
切なくて、
もどかしくて、
「‥‥っ」
噛みつくように唇を奪った。
深く、息さえも奪うほどに絡め、今ここに二人が確かにあるのだというのを教えてあげるかのように何度も何度も口づけ
を繰り返す。
「‥‥ひとりに、しねえから。」
彼女が願うのならば、彼はそれを全力で叶えよう。
この不器用で優しい女を泣かせたくなんかないから。
だから、
原田はしかと華奢な身体を抱きしめて、誓った。
「俺は絶対に、おまえをひとりにはしない――」
「っ」
嗚咽が喉の奥で弾ける。
は後から後から溢れて止まらない涙を零しながら、取り縋って泣いた。
ごめんなさい――
泣きながら、は心の中で告げる。
かつての大切な人たちに。
失いたくなかった家族に。
わたしは‥‥まだ、そこへは行けない。
地獄の底まで一緒だと誓った彼らの元に、まだ、行くことは出来ない。
大切な、
この世界で一番大切な人がここにいるから。
誰よりも失いたくない人がここにいるから。
だから、もう少し、待っていて――
そんな言葉を彼らが聞けば、恐らく苦笑で言われたことだろう。
「おまえはまだこっちにくるな」
と。
君が存在していることが、
何よりの僕の存在意義
悲しくても泣けない哀れな女の為に
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