「お願いがあるのだけど。」

  やたら耳にしつこく残る声で、男は言う。
  今はもう顔を見ることさえ腹立たしいというのに声まで掛けられ、土方はあからさまに不機嫌そうな顔をしてみせた。
  直、離反するとはいえ、彼は参謀。
  自分よりも目上の人間に対する態度ではない。

  それに気付いてはいるが、彼は咎めない。
  その代わり、にこりと極上の笑みを浮かべて、お願いがあるのと言った。

  願い?

  土方は片眉をひょいと跳ね上げた。

  彼の「願い」とやらが厄介な事は分かっていた。
  離反のついでに隊士を分けろと言ってきた男だ。
  言われるとおり少しばかり分けてやったし、幹部も二人すっぱ抜かれた。
  一名は戻ってくるだろうが、それでも人が抜けるのは正直、痛い。

  これ以上まだ欲しいのか、この強突張りが‥‥

  と心の中で吐き捨て、とりあえず「なんだ」と訊ねる。

  すると、
  彼はにんまりと笑みを浮かべて、

  「‥‥あなたの助勤を、私に頂戴な。」

  そう、言った。
  男の目に浮かんでいたのは、同じ男としてよく分かる、欲望の色だった。



  「おはようございます。」
  朝靄の残る早朝。
  まだあたりはぼんやりと薄暗いというのに、彼女は寝起きとは全く思えない爽やかな笑みを浮かべて近付いてきた。
  一方、土方の方は多少不機嫌そうだ。
  おっと、とは僅かに目を見開き、そしてすぐに眉を寄せて苦笑に変えると、ごめんなさい、と謝る。
  「なんだ、急に。」
  謝られ土方はその時初めて自分の顔が不機嫌なそれになっていると気付いた。
  僅かに眉間の皺を解いて訊ねれば、彼女はひょいと肩を竦めて、
  「ほら、土方さんのお布団、占領しちゃったので。」
  眠れなかったでしょう?
  とに言われて、そういえば昨夜は彼女が自分の部屋を使ったんだったと思い出した。
  「いや、んな事気にしてねぇよ。」
  土方は頭を振った。
  彼女に対して怒っているわけではない。
  部屋を提供すると言ったのは自分だし‥‥正直部屋に戻れた所で眠る気にはなれなかっただろうし、きっと眠れなかっ
  ただろう。
  「それより、眠れたか?」
  それなら何故不機嫌そうなのか、その問いを彼女が口にするよりも前に、土方が別の問いを口にした。
  おや、どうやら不機嫌な理由を聞かれたくないらしい。
  先延ばしにするあたり、あまり良い話題ではなさそうだ。
  は表情一つ変えず、それを察知すると、それなら彼が言いたくなるまで待とうと会話に付き合うことに決めた。
  「おかげさまで。」
  「そうか。」
  「‥‥っていうか、私、いつの間にお布団の中に入ってました?」
  入った覚えがないんですけど、と彼女が言うので土方は昨夜のそれを思い出し、苦笑を漏らす。
  「畳の上で寝転けてやがったから、俺が放り込んだ。」
  「ええ!?」
  が驚いたように声を上げる。
  まさか、そんなはずがないと言いたげだ。

  基本、寝付きは悪い方ではない。
  寝ようと思えばいつだって眠れる‥‥まあその逆眠らないと思えばずっと起きていられる‥‥が、だからといって畳の上
  でぐーすかと眠るような、そんな行儀の悪い事はしない。
  用意されている場合はきちんと布団に入って、寝る。
  いや、それ以前に「寝よう」と思わなければ眠らないはずだった。

  しかし、

  昨夜はそうではなかった。
  畳の上に転がって眠って、無防備に眠っていた。

  人の着物にくるまって幸せそうな顔をしていた、というのは黙っておこう。
  自分だけが知る秘密だ。

  「お手数をおかけしまして。」
  はかりかりと頬を掻きながら頭を下げる。
  「間抜けな顔とかしてませんでした?」
  涎とか‥‥と彼女は照れもせずに言うので、土方はく、と喉を震わせて笑った。
  そこは普通年頃の女の子なら聞きたくないだろうに。
  寝顔を見られた、千鶴ならばきっと赤面ものだ。
  「だらしねぇ顔してた。」
  あんまり女の子らしくないので、こちらも同じように返してしまう。
  あ、やっぱり、とは呟いただけで赤面はしなかった。
  ただ代わりに引き締めるためにだろうか、ぺちぺちと頬を叩いている。

  「‥‥で、土方さんはずっと起きてたんですか?」
  「ああ、やることがあってな。」
  彼の返答には溜息をつく。
  まあ、女の子が横で眠ってるのにずかずかと入ってくるような不作法な男ではないとは知っている。
  それが例え部下であろうと、気を遣ってくれるに違いない。
  だから眠りたくなかったんだ‥‥とは心の中で呟く。
  彼が戻ってくるのをきちんと見届けて、布団にでも引きずり込んで、そうして眠ってやればよかった。
  そうすれば否応なしに彼も眠ることになるだろう、とは思ったが、実際そんな事をしたら土方は眠るどころではなか
  っただろう。

  沖田に言えば「男心を分かってない」と溜息をつかれる所だ。

  「後でちゃんと眠ってくださいよ。」
  「ああ、片づいたら、な。」
  土方の答えに、あとで無理矢理布団にねじ込んでやろうと、は思った。


  「ところで‥‥」


  頃合いを見計らい、土方は口を開く。
  口を開き、だがすぐに閉ざした。

  どう切り出すべきかと、一瞬だけ悩んだ。

  単刀直入に伝えるべきか。

  伊東が副長助勤を欲しがっているのだが、おまえはどうする?
  と問えばいいのだろうか?

  そうすれば彼女はきっと、
  「土方さんが必要と思うなら、一緒に行きます。」
  と答えるだろう。
  伊東の事が好きだろうが嫌いだろうが、必要とあらば彼女は彼らと同行をする。
  昨夜だって‥‥必要ならばあの男に手込めにされても構わないと言った。
  口では。
  身体は嫌悪していたようだけど、でも必要とあらば自分の心を斬り捨ててでも彼女は伊東と共に行くだろう。

  間者なら斎藤一人で十分だ。

  しかし、
  彼女に答えを聞かぬまま、進めてもいいものだろうか?

  だけど‥‥

  「‥‥」
  もう一度口を開いたとき、
  「動かないで。」
  そっとの温もりが近付いた。
  驚きに土方の目が見開かれる。
  彼女は彼の腕を掴んで、一歩踏み込んで距離を近づける。
  抱きしめる丁度いい場所に立ち、は背伸びをした。
  伸びた手が、そっと頬に触れる。
  そして、

  「取れた。」

  は言うと、爪先立っていたそれを、ぺたんと戻した。
  顔との距離が、離れる。
  「‥‥埃?」
  彼女は指先に埃を摘んでいた。
  「頬についてました。」
  言って、ふ、と彼女は手の上から吹き飛ばす。
  そうすればまるでさせまいと、冷たい風が吹き付けて埃を押し戻した。
  おいおいそれじゃ意味がないだろうと土方は苦笑を漏らしながら、ふいに、

  ふわ、

  と香ってきた甘い香りに気付く。

  花の香りだろうか?
  庭先につけた名も知らぬ花の香り?

  否、
  ちがう、
  それは知っている香りだ。

  爽やかで、仄かに甘い、花を思わせる、香り。

  それは、

  ――――

  彼女の纏う香り。

  昨夜知った。
  すごく、いい香りだと。
  柔らかくて、
  女らしい、
  彼女らしくない、彼女の、香り。

  「土方さん?」
  離れたはずの距離が縮まった。
  今度は男から一歩を踏み出し、男から手を伸ばす。
  柔らかな髪に手が触れた。
  そのまま手触りを確かめて、引き寄せる。
  とす、と無抵抗に彼女は土方の胸元に額を寄せる。

  ふわりと、香りが強くなった。

  「髪に‥‥」
  どうしたんですか?という問いに、土方はそう返した。
  髪に、なんて嘘だ。
  何もついていない。
  でも、口から突いて出た。
  まるで、触れる、口実みたいだと彼は思った。

  ぎ、し、

  小さく床の軋む音が聞こえた。
  次いで聞こえた息を飲む音。
  「‥‥」
  視線だけを上げれば、そこに今、出来れば見たくない男の姿がある。
  驚きに目を丸くし、ぱくぱくと金魚みたいに口を開閉させているその人。

  伊東‥‥参謀‥‥

  彼は「何をしているんですか!?」と喚きたそうな顔をしていた。

  だが、彼だって同じような事をしたがっている。

  彼の、を見る目は異常だった。
  そう、異常なのだ。
  彼は、を一人の人間として欲している。
  彼女を‥‥抱きたいのだ。
  もしかしたら逆かも知れないが‥‥
  彼は、欲しがっている。
  の心、
  体を。

  「‥‥させる、かよ‥‥」
  「土方さん?」
  知らず、言葉が零れていた。
  こちらを見上げようとするのを、後頭部を押さえた手で遮り、静かに顔を寄せた。

  ふわりと香る甘いそれが一層強くなり、土方はまるで誘われるように瞳を伏せる。

  そっと、
  男の唇が女のこめかみに触れた。
  には、それが彼の唇なのか、頬なのかは分からない。
  ただ、彼の纏う白梅の香りが‥‥ああ、やっぱりいい香りだな、と思った。

  「‥‥」
  彼は口づけたまま、視線をもう一度前へと向けた。
  紫紺の瞳は強く、鋭い色を湛え、伊東を睨み据え、

  にぃ‥‥

  口元が歪められた。

  背筋が寒なるほど、男は妖艶に笑ってみせ、彼女を守るようにその背を抱くと、唇だけを動かして、こう、告げた。

  ――コイツダケハ ヤラネエ――







伊東参謀に牽制。
そして、牽制という言い訳で彼女に触れる。