「はじめぇ、もっと‥‥」

  気持ちよくって私はもっとと何かをねだった。
  その時の一の顔は‥‥よく見えなかった。



  たちの悪い風邪が完治したのは私が倒れてから十日もしてから。
  ようやく監視もなく自由に出歩けるようになった私は幾分涼しくなった風を受けながら庭先で伸びをした。
  秋の気配になんとなく心が踊る。
  早く冬にならないかなぁと低い雲を見上げて考えていると、視界をふっと黒い影が過ぎった。
  見れば影そのものの黒い着物を着た男の姿。

  「一?」

  彼の姿。

  「っ!?」
  呼び掛ければ一は彼らしくもなくぎくりと肩を強ばらせて私を振り返る。
  そして何故か、
  「せっ!」
  人の名前を噛んだ。

  「ちょっと人の名前かむなよ〜」

  私は苦笑しながら近づき、こないだは、と続けた。

  「色々とありがとな」

  彼も他のみんなと同じように私の様子を見にきてくれた。
  一番ひどかった時だったからあんまり覚えてないんだけど‥‥というのは内緒。

  「一?」

  もう大丈夫だからと言うのに彼は何も言わずに立ち尽くしてる。
  立ち尽くしてるっていうか‥‥凍りついてない?こいつ‥‥

  「どした?」

  まさか看病で風邪が伝染った‥‥とかないよなぁと顔を覗きこんだら、

  「つっ!?」

  何故か、
  一はぼんっという破裂音を立てて顔を真っ赤にして、

  「一っ!?」

  早足で逃げた。



  高熱でほんやりとしていたはひんやりと額に触れた冷たさで目を開けた。
  暗闇の中で視線をさまよわせれば、静かな青い光を見つけた。

  「は‥‥じめ?」

  呼びかけに彼は何も言うなと小さく囁いた。
  手を一度離すと、桶に浸した手拭いを絞って彼女の額に置く。
  そしてその冷たくなった手が頬に張り付いた髪を剥がすように優しく触れる、
  火照った身体にはその冷たさが心地よい。
  はそっと目を眇めて笑った。
  それはまるで子供のようなあどけないそれで、

  「はじめぇ‥‥」

  甘えたように彼女が自分の名を呼んだ。
  自分の名がまるで別のものになったかのように‥‥ひどくひどく甘く感じた。
  そしてそれ以上に彼女が甘く、愛おしく。

  「もっと‥‥」


  彼がその後部屋で悶々としていたという事実は彼女が知る由もない。


  
風邪〜日目〜



  恐らく部屋で悶々としていることかと。