見知った人の顔を見た瞬間、
  いつもならば浮かぶ笑顔が曇るのを見た。
  目には戸惑いの色や、悲しみの色を浮かべていて。
  それから‥‥確かに感じる薄い、壁。

  そして、彼らは揃って見なかったふりをして通り過ぎる。
  それはこちらも同じ事。
  見なかった振りをして通り過ぎながら、
  もう、戻れない事を知る。

  溜息が滑り落ちた。

  もう、
  あの頃には戻れない――

  それがこんなに苦痛だとは思わなかった。



  今日は非番だというのに、藤堂は一人なじみの茶屋でぼんやりとしていた。
  以前であれば非番になればすぐに酒を飲みに走った。
  非番でなかろうと、夜には気心の知れた彼らと島原へ繰り出した。
  それも最近はなく‥‥彼は非番の度に時間を持てあましていた。
  正直、屯所にはいたくなかった。
  空気がぎすぎすしているのだ。
  仲間である御陵衛士の連中は、嫌な空気を纏っている者が多かった。
  率いる伊東の性格でも受け継いでいるのか、やたら人を見下してくる。
  おまけに彼が新選組だったという理由で、彼に対して距離を置いている所がある。
  何か仲間内で不穏な動きがあればすぐに彼が疑われ‥‥屯所にいてもどうにも見張られているようで落ち着かない。
  まあ、距離があるのは藤堂自身が避けているせいでもあるが。

  「‥‥はぁ。」

  彼は溜息を吐き、茶を啜った。

  仲間同士で疑う‥‥なんて、以前ならば考えられなかった。
  特に、幹部連中で疑うなんてことは‥‥ない。
  だって彼らは共に戦場を駆け、背中を預けあった仲間だから。
  いわば、家族のようなものだから。

  そんな彼らから離れた自分は‥‥ある種の裏切り者なのだろうか?

  「‥‥」
  水面に浮かぶ、情けない自分の顔を見つめる。

  彼は迷っていた。
  自分で、この道を選んだ。
  自分で自分の道を選んでここにやってきた。
  だから、迷いは無かったはずだった。

  でも、
  最近は本当にこれが正しいのか‥‥分からなくなっていた。

  共に戦う御陵衛士の皆は、ころころと己の信念を変えた。
  攘夷だと言っていたかと思うと、開国だと言い始めた。
  自分たちがつく主もころころと変えた。

  彼らには信念がないような気がした。
  ‥‥少なくとも『彼ら』のような確固たる信念が、ないような気が。

  「未練‥‥だよな。」

  ふと、藤堂は笑う。
  今の伊東と、新選組を比べる、なんて。
  そして、やはり彼らの方が正しい気がするなんて‥‥
  未練がましい。

  「オレ‥‥何のために戦うんだろ?」

  自分の信念のために刀を振るいたかった。
  それは今でも変わってはいない。
  でも、もし自分の目の前に‥‥永倉や原田。
  新選組の、かつての仲間が現れたら‥‥彼は迷わず刀を抜く自信がなかった。

  だけど、

  「もう、戻れない。」

  彼らは、もう、仲間ではないから。
  そしてそうさせたのは、自分だったから。

  ぎゅっと湯飲みを持つ手に力がこもった。
  その瞬間、

  ぱきん、

  と嫌な音がして、手の中で固いそれが崩れた。
  「え?わっ!?」
  寿命が尽きたのか、湯飲みが割れたのだ。
  運悪く藤堂が力を入れたせいで、罅が入り、そこから見事にばきりと割れて落ちる。
  「あっちー!!」
  当然お茶は彼の掌に遠慮無く掛かり、熱さに思わず声を上げて手を振る。
  お茶だけでなく、割れた湯飲みの欠片にも引っかかれたらしく、掌にじわりと血が滲んだ。
  今日は厄日かよと涙目で睨めば、隣に腰を下ろしたその人がそっと手拭いを差し出してくれた。
  「お、すまねえな!」
  差し出された白い手拭いには、美しい桜の刺繍が施されている。
  受け取った瞬間、ふわりと香る花に似た香りが広がり、それにはなんだか覚えがあると彼は思って、
  「‥‥え‥‥」
  視線をそちらへと向け、彼は言葉を無くす。
  隣にやってきたのは、控えめな萌葱の着物を着た、ひどく美しい女だった。
  だが決して彼女が美しいから言葉を無くしたわけではない。
  いや、それも多少あったが‥‥その人は見覚えのある人だったからで‥‥

  「大丈夫ですか?」

  にこりと琥珀の瞳を細めて笑う女性は、そう訊ねた。
  その声は間違いなく、彼の知る人の‥‥ものだった。

  「‥‥」

  呻くように名を呼ぶ彼に、普段とは装いの違う彼女はことんと小首を傾げてみせる。
  その瞬間、しゃらと簪が涼やかな音色を奏でた。
  「どなたかとお間違えですか?」
  私はという名ではありませんよと告げる彼女は、目を猫のように細める。
  そんな意地の悪い笑い方をする女はこの世でただ一人だ‥‥と藤堂は思った。
  だが、彼女の格好に、はっと気付いて口を閉ざす。
  きっと彼女は何か仕事の途中なのだろう。
  今隣にあるのは新選組副長助勤のではなく‥‥どこぞの街娘‥‥なのだ。
  まずいまずい、危うく彼女の仕事を台無しにする所だったと彼は口を手で押さえ、こほんと咳払いをする。
  「ええと、とにかくありがと。」
  受け取った手拭いでお茶を拭いながら藤堂は礼を述べた。
  いえ、とは笑って、彼女はやってきた店の主人に「団子を」と頼む。

  並んで座りながら‥‥藤堂は沈黙した。
  普段なら、出てくる軽口が、何も出てこなかった。
  なんとなく‥‥視線を伏せて濡れた地面を睨み付けていると、隣から小さな問いかけがあった。

  「何かお困りですか?」
  「え‥‥?」
  声を掛けられて顔を上げれば、はこちらをじっと見て、
  「怖いお顔をされてます。」
  と口を開いた。
  女物の着物を着ている彼女は全然いつもと違う。
  言葉遣いも丁寧だし‥‥その様子もまるっきり女らしい。
  新選組の幹部とは思えないし、とても血生臭い事が似合うとも思えなかった。
  彼女は、ではないのかもしれないと。
  ああ、
  だから、
  別人だから彼女は声を掛けてきたのかも知れない。
  そう思うと、また、藤堂は落ち込んだ。
  やはり、もう、
  何があっても戻れないと。

  「‥‥」
  なんでもと応え俯く彼の横顔をはそっと目を眇めて見つめる。
  彼は何とも彼らしくない、沈んだ顔をしていた。

  お待たせしましたと店の主人が団子と茶を持ってくる。
  それをありがとうとは笑顔で受け取り、茶を一口啜って、通りを見た。
  そうしながら、

  「らしくない顔。」

  ぼそりと呟く声は、いつもののものだった。

  「‥‥え?」
  何度目だろう。
  驚いて顔を上げるのは。
  藤堂は彼女を見るが、彼女は通りをじっと見つめたままだった。
  湯飲みで口元をそっと隠して、彼女はぼそりと再度口を開いた。

  「この世の終わりって顔してなっさけないの。」

  辛辣な物言いに一瞬藤堂はうぐとたじろぐ。
  落ち込んでいる最中にそんな事を言われ更に落ち込みそうになる彼には深い溜息を零す。
  そして、

  「そんな顔似合わないってば。」

  小さく、そう告げた。

  が知っている藤堂は‥‥いつも笑っていた。
  楽しそうに怒って、叫んで、にからかわれてばかりで‥‥
  だけど、
  最後はやっぱり笑顔を見せる人だった。

  その笑顔が眩しいと思った。
  子供っぽい無邪気な笑顔は、彼の持ち味だと。
  そう、思っていた。

  そしてそれこそ彼らしいと‥‥

  「‥‥」
  藤堂がもう一度名を呼んだ。
  ちら、とこちらを見たは、真剣な眼差しでこう告げた。

  「迷うな、とは言わない。」

  凛とした、迷いのないそれに藤堂は胸の内を見透かされたようでぎくりとした。
  後ろめたくて視線を逸らしたいけれど、琥珀の瞳に縫い止められたようでそれが出来ない。
  は続けた。

  「迷うなとは言わない。」

  人間だから。
  それは無理だ。

  でも、

  「迷っても、いつか答えは決めろ。」

  そう彼女は言った。

  迷って、答えをあやふやにするなと。
  逃げてばかりいるなと。
  答えをいつか決めるべきだと。

  そうしないと‥‥

  「おまえ、死ぬぞ。」

  「っ!?」

  の瞳には、迷いはなかった。
  きっと、ここで藤堂が刃を向ければ‥‥彼女は彼を斬るのだと分かった。
  そうだ。
  は決めた。
  彼が決めた答えを、きちんと受け入れて、決めてくれた。
  きっと辛い事だ。
  苦しい事だ。
  でも、それでも彼女は覚悟を決めてくれた。

  選んだのは‥‥自分だ。
  選ばせたのは‥‥自分だ。

  「‥‥」
  藤堂は小さく嘆息した。
  一度瞳を閉じると、今度はその瞳に強い色を湛えて、
  「‥‥」
  瞳を開いた。

  へぇ。
  とは小さな声を上げ、彼女らしい意地の悪い笑みを浮かべてみせる。

  迷いはない‥‥といえば嘘になる。
  でも、
  藤堂は決めた。
  かつての仲間から、
  決して、
  目を逸らさないと。
  逃げる事はしないと。

  「‥‥それでこそ平助だ。」

  はにっと笑った。
  淑やかな着物が似つかわしくないほど、血のにおいのする獰猛な瞳で、笑った。

  それから、すぐにそれを消し去ると、立ち上がる。
  「それじゃ私はお先に失礼しますね。」
  にこりと先ほどと同じように丁寧な物腰で、柔らかな笑みを貼り付けた女に戻り、藤堂は慌てて「ああ」と答えた。
  「ありがとな。」
  「いえ。」
  ほんの少しの時間でも、かつての仲間と話が出来て良かったと藤堂は思う。

  「‥‥ありがとな。」

  もう一度、彼は少しだけ寂しそうに笑う。
  「では‥‥」
  はそっと彼の前に立って、一礼した。
  ふわりと手拭いから香るそれと同じ‥‥だけどそれよりもっと強く、甘い香りが藤堂を包んだと思った瞬間、
  ああ、手ぬぐいを返さなければと思った瞬間、

  そっと、

  額に暖かな何かが触れたのを感じる。

  ‥‥なに‥‥

  と視線だけを上げれば、さらりと零れる飴色の髪が見えた。
  もう少し視線を上げ、触れている何かを彼が知るよりも前に、その人が離れてしまう。
  最後に見たのは、

  「死ぬなよ――」

  の、心配そうに揺れる、
  琥珀の瞳だった。

  それはやはり、昔見た彼女のそれと‥‥何も変わらなかった。



わらない友情



御陵衛士になった後の話。
きっと平助は迷ってると思う。
そしてその背中を押したくなる