黒と赤の夢を見た。
  悲鳴と怒号の夢を見た。

  どんな夢だったかは、もやが掛かって覚えていない。
  ただ、ひどく気味の悪い夢で。
  ひどく、怖い、夢。


  ぺたぺたとは一人廊下を歩いていた。
  闇に彩られた室内は、まるで昼間のが嘘のように静まりかえっている。
  曲がり角を曲がったら何か飛び出してきそうだ。

  常のならばそんなこと恐ろしいとも思わない。
  ただ、
  あの夢を見た後は別だった。

  悪夢を見た。
  内容は覚えていない。
  ただ怖くて、悲しくて、
  気がつくと部屋を出ていた。

  一人では‥‥いたくなかった。

  「‥‥」
  はぺたぺたとさして長くもない廊下を歩きながら思案していた。
  さて、一人でいたくはないけれど、どこへ行こう?

  やはりここは近藤の部屋だろうか。
  彼ならば笑って招き入れてくれるに違いない。
  あの暖かい笑顔と大きな手で、
  「怖いやつが来ても俺が守ってやる」
  そんな事を言ってくれるに違いない。

  それか、沖田だろうか。
  彼は笑い飛ばすに決まっている。
  「夢なんだから気にしなくて良いよ」
  って笑い飛ばしてくれるに決まってる。

  ああ、あの二人ならば安心だ。
  そうだ、あの二人の所に行こう。

  と、そう、
  思っていたのに‥‥

  「‥‥なんだ?」

  気がつくとの足は違う場所へと向かっていた。
  部屋の中にぼんやりと灯りが灯っているのが見えた。
  そっとだけ襖を開けると案の定、布団に横になって何か読みふけっているその人がいた。
  こちらに気付いたらしい彼は振り返り、怪訝そうに形のいい眉を寄せた。

  「なんの用だ?」

  土方の態度は、まったくもって歓迎するようなものではなかった。

  はどうしてここへ来たのだろうかと自分で自分に問いかけた。

  別に暖かく出迎えてほしいわけじゃないが、彼には追い返されるに決まってるのに。

  「‥‥なんの用だって聞いてるんだよ?」

  のそっと男は上半身を起こす。
  聞かれては返事に窮する。
  理由を聞かれても困る。
  自分だって分からない。
  いや、それ以前に言葉を出せない自分では返事をすることなど不可能だ。

  「‥‥」

  やはりここは戻った方が良さそうだ。

  大人しく部屋に戻って寝よう。
  いやでも、そうしたらまたあの夢を見るかも知れない。
  それは‥‥嫌だ。

  「‥‥」

  俯いたの表情に何かを感じ取る。
  そして次の瞬間、土方は彼女を悩ませている原因に気付いた。
  しかしここへ来た理由は分からなかったが、とにかく、

  「ほら。」

  ぱさっと土方は己の布団を捲った。

  ならばやはり他の二人の所に行くべきだろうかと思案していたは彼の行動に目を丸くする。
  一体何を?
  とそう言った表情だ。

  「寒いだろうが、早くしろ。」

  早く入れ。
  とそう言われては一層目を見開く。
  追い返されることはあっても、まさか招き入れられるとは思っていなかった。
  しかも、
  彼の布団に、だ。

  「‥‥」

  まさかこのまま逃げるわけにもいかず、は戸惑いながらも襖を閉め、呼ばれるままに彼の元へと歩いていく。
  とたとたと頼りない足取りでやってきたが、ほら、ともう一度促してもは困惑の表情のまま彼の顔を見ている。

  「ったく。」
  焦れたのか、土方はの手を掴んで引き寄せた。
  不機嫌な顔とは相反して優しい力で布団の中へ引っ張られる。
  あ。
  と小さな声を上げるよりも前に、ふわりとなんだかいいにおいと暖かなそれに包まれた。
  ころんと転がった身体の上に、掛布が掛けられた。
  「なんだ?怖い夢でも見たのか?」
  問われ、は控えめにこくりと頷く。
  そうすれば男はやっぱりという風な顔で笑い、
  「そんなのただの夢だ。」
  気にするなと言ってのけると、親が子をあやすように布団の上からとんとんと軽く叩く。

  「別の事でも考えてりゃすぐに忘れる。」
  「‥‥」
  「楽しいことでも考えて早く寝ちまえ。」
  「‥‥」
  「‥‥」

  は喋らない。
  となると、必然土方が一人で喋ることになるが、彼もあまり多弁ではない。
  すぐに沈黙が落ちてしまった。

  「‥‥」
  彼はしばらくとんとん、と布団の上から優しく叩いていたが、やがてその手も止まり、視線は別へと向けられた。
  話題を探しているのか‥‥それともこの沈黙の時間を何で誤魔化そうと考えているのか分からない。
  ただ、は張りつめたような沈黙で、彼を困らせているのだと気付いた。

  ああ‥‥やっぱり彼の元へ来るんじゃなかった。
  いや、
  それどころか、誰の所へも行くべきじゃなかったのかもしれない。

  彼の言うとおり、ただの夢‥‥なのだ。
  そう笑い飛ばせば良かったんだ。

  「‥‥」
  瞳を伏せる少女に気付き、土方はふんと鼻を鳴らした。
  「馬鹿が。」
  呟きには視線を上げる。
  見れば男は僅かに不機嫌そうな顔をしていた。
  「餓鬼が一丁前に気なんか遣ってんじゃねえよ。」
  そう言って、ぐしゃぐしゃと些か乱暴に頭を撫でられる。

  「‥‥そんなこと気にせずに、休め。」

  やがて手は優しいそれになり、男の表情も一層、穏やかなそれへと変わっていった。

  その時、
  は初めて気付いた。
  彼の隣はすごく‥‥落ち着くのだと。
  決して近藤のように甘やかしてくれるでも、沖田のように遠慮無くやりあえるのでもない。
  大抵難しい顔をしているし、なんだか近寄りがたい。
  変に目聡いし、時々細かいし‥‥ちょっと隣にいると肩が凝る。
  でも‥‥

  落ち着くのだ。

  彼の隣。

  「俺も今日は寝るかな。」
  と呟き、ごろんと隣に横になる。
  狭いと申し訳ないと思って身体をずらせば大きな手に遮られ引き寄せられる。

  大きな手は不思議と怖くない。
  いや、それどころか‥‥

  ひどく、
  安心感を覚えた。

  ああ、なるほど‥‥
  は目を眇める。
  先ほどまで感じていた恐怖は、もう、ない。
  目を閉じることに、闇が訪れることに恐怖はなかった。

  温もりが。
  大きな手が。

  闇をうち払ってくれる気がしたから。

  もう大丈夫。
  もう怖くない。

  は目を閉じ、やがてごろんと寝返りを打った。

  「‥‥」
  お、と今度は小さく土方が驚く番だ。
  誰より自分に懐いていなかったはずの子供が‥‥まるで甘えるように彼の胸へと顔を押しつけてきた。

  ぴったりと土方に寄り添えば、温もりのせいか、それとも‥‥安心したのか、すぐに眠りの世界へと誘われる。

  もう、
  怖い夢は見ない。

  「‥‥おやすみ。」
  土方は控えめな声で少女に告げると、その温もりをしっかりと抱くよう手を伸ばした。

  小さな身体はひどく暖かい。
  今夜は寒い。
  だけど、

  今夜は‥‥ゆっくりと眠れそうだ――



彼の隣



が彼になつくようになったのはここから。