「貴様は剣の道を汚すつもりか!!」

  それは負け犬の遠吠えである。
  しかも相手はよりも五つも上の立派な大人。
  そんな彼がまだ十そこらの子供に剣術でこてんぱんにされた。
  それなりに名の知れた道場の門下生である。

  彼は同じ門弟ではもう叶わぬと知り、前々から気にくわなかった試衛館道場の人間に手合わせを申し出たのだが‥‥
  生憎と近藤も土方が出掛けており、
  門弟である沖田はいたのだが、ただ気が乗らないと言うことで、残ったのは原田、藤堂、永倉、斎藤であった。
  しかし彼らは食客であり正式には門弟ではない。
  まさかそんな彼らに相手をさせるわけにはいかず‥‥妥当な所では井上か、沖田だ。
  しかし、あろうことか彼の前に進み出たのは‥‥

  「この、ガキが?」

  だったのである。

  男の腰ほどもない背丈の子供を前に、男は思いきり不愉快そうな顔をした。
  馬鹿にされたと思ったのだ。

  「沖田総司はおらんのか!!」

  四代目の主近藤の兄弟子であり免許皆伝の腕前でもある井上源三郎よりも、凄腕剣士と名高く‥‥しかし、性格の悪さから
  あちこちで問題事を起こす彼が指名されるのは当然の事だ。
  ひとえに男は鼻っ柱を折りたいのである。
  彼はひらひらと手を振りながらいるよと答えた。
  が、

  「悪いけど、君の相手をするつもりにはなれない。」

  明らかに馬鹿にしたような言葉に、男の眉間にはぴききと青筋が浮かんだ。
  井上がこらこらと窘めるが、彼は聞く耳を持たないだろう。
  それに、と沖田は続けた。

  「僕は君を馬鹿にするつもりはない。」

  むしろ、その逆だ、と彼は言った。

  侮って等いない。
  勿論、
  相手が沖田の足下にも及ばない事は分かってはいるが、だから相手をしないわけではない。
  それよりも‥‥

  「‥‥」

  琥珀の瞳を細めて、はどうしますか?と訊ねた。

  馬鹿にされて腹立たしいのは確かだった。
  しかし、このまま帰るわけにはいかない。
  一矢報いてやらなければ彼は気が済まなかった。
  この目の前の子供をたたきのめして、沖田を引きずり出さなければ気が済まなかった。

  「‥‥参る。」

  男は木刀を構えた。
  構えを見て、少女はそっと溜息を零したのみだ。

  そして、男は地を蹴った。

  にやりと笑った沖田は、こう、呟いた。

  「僕よりももっと遠慮のない相手にたたきのめして貰える方が‥‥ああいう世間知らずには効くでしょう?」

  勝敗は‥‥一瞬で決した。
  当然、少女の勝ちである。



  庭先で冷たい井戸水を頭の上から被る。
  それは肌の上を滑り、胸を多う白いサラシに吸い込まれていった。
  布できつく巻き付けている‥‥とはいえ明らかに女のそれと分かる胸の膨らみに、は溜息を零した。

  ‥‥決して女として生まれた事を疎んではいない。
  ただ男であればよかったと思うことはある。
  月の障りは面倒だし、腕力では男に敵わないし‥‥おまけに仲間と一緒に風呂に入ることも出来ない。
  そんなもの関係ないから一緒に入って背中を流してあげたいと言って着物を脱いだ時の、近藤のあわてふためきようと土方
  の不思議な顔をは忘れない。
  だが思いっきり駄目と言われた。
  まったく、面倒で‥‥つまらない。

  「‥‥」

  それでもこの道場に誰も文句を言わずにおいてくれている。
  それがありがたい。
  女である、とか、男である、とかそういうものは関係ないのだろう。
  少なくとも‥‥彼ら仲間にとっては。

  「き、貴様!」

  ふぅ、と溜息をつきつつ手拭いを手に振り返れば、がさりという足音と狼狽えた声が聞こえた。
  振り返ればまだいたのか‥‥先ほど自分にやられた、自称天才剣士がそこにいた。
  彼は驚きに目を見開いている。
  勿論、見ているのはの胸元だろう。

  「‥‥なにか?」

  彼女は動揺も見せずにそっと身体を拭うと着物をただした。
  女としての恥じらいなど残念ながら持ち合わせていなかった。
  しかし、男は別だ。
  男としての矜持が、許さなかった。

  「貴様‥‥女子だったのか。」
  「それが?」

  問題があるのかとは言った。
  すると男は顔を真っ赤に染め、わなわなと身体を震わせながらこう喚くのだ。

  「女の身でありながら刀を持つなど言語道断だ!!」

  あくまで、
  戦うのは男の役目。
  女は一歩控え、子供を育てるのが役目。
  とでも思っているのだろう。

  勝手にすればいい。
  それはその男の考えだ。

  はああそうと言いながらそっと背中を向けた。

  その背中に、言葉が投げつけられた。

  「貴様は!
  剣の道を汚すつもりか!!」

  女が戦うことは‥‥悪なのだろうか?
  女が刀をとることは、

  醜いことなのだろうか?

  ただただ、
  大切な人を守るために‥‥
  戦うだけなのに?
  あの人たちの為に、
  生きているだけなのに?

  醜いというのだろうか?


  ナニガ――



  「!!」

  声が聞こえた。
  瞬間、強い力が久遠を引き抜いた手を掴んでいた。
  振り上げたそれは‥‥しかし、腰を抜かした男に振り下ろそうとしたものではない。
  先ほどと同じ距離だ。
  一歩も近付いて等いない。
  だというのに男は恐れに顔を歪め‥‥情けなくも失禁をしていた。

  「あの男を殺そうとしてるわけじゃない。」

  は琥珀の瞳を細めた。
  まるで子供のそれとは思えないほど、鋭く‥‥凶暴な殺意を滲ませたそれだった。

  分かってる。

  と呟いたのが原田だと分かったのは、その時になってからだ。

  分かってる。
  と彼は言い、ぎろりとへたりこんだ男を睨む。
  視線だけで射殺してしまいそうなそれで睨み付け、
  「失せろ‥‥これ以上余計な事言いやがったら、二度と刀を握れねえ身体にしてやるぞ。」
  低く、唸るように言い放つ。
  瞬間、恐怖が極限に達したのか‥‥男はひいいと情けない声を上げてばたばたと背を向けて逃げ出してしまった。
  遠くで、どさりと、何度か躓いて倒れる音が聞こえた気がした。

  「‥‥」

  掴んだの腕は、ぴくりとも動かない。
  は悔しいと思った。
  彼の、強い男の力が。

  ふ、と溜息をついて、ようやくその力が緩められた。
  が、まだ手首は掴まれたままだ。

  「‥‥刀を仕舞え。」
  「心配しすぎ‥‥」
  敵はもういないっていうのに‥‥
  そう苦笑を漏らせば険しい顔のまま原田は首を振った。

  「おまえが斬ろうとしていたのは‥‥あの男じゃねえだろ?」

  「‥‥」

  ぴくりとの肩が震えた。
  彼の言葉を肯定しているようなものだ。

  そう、
  彼女が斬ろうとしたのは‥‥あの男ではない。
  あの男を殺す事など造作もないことだが、それよりも彼女が怒りを覚えたのは‥‥

  「女だって‥‥戦ったっていいじゃない。」

  あの男の言葉。
  女が刀を持つことは、神聖なる戦いを冒涜するようなものだと‥‥そう言われたこと。

  自分が‥‥
  彼らと違う存在であることを今更ながらに突きつけられて‥‥
  悔しかったのか、
  それとも、
  悲しかったのか、
  寂しかったのか分からない。

  ただ、男の言うように女が戦う事が悪なのであれば自分は女でなくなればいいと思った。

  そう、

  「胸なんて‥‥なくていい。」

  乳房を切り落として、
  髪を落として、

  女である全てを‥‥無くしてしまえばいい。
  そうすれば‥‥

  「‥‥ったく。」

  馬鹿野郎が、と原田は言い、久遠を無理矢理奪い取った。
  そうして鞘へと収めるとくるりと彼女をこちらへと向かせた。

  「いいか?」

  背の高い男は小さな彼女に視線をあわせるべく腰を屈めた。
  しっかりと目を合わせると小さな顔を包み込むように両手を頬に触れた。

  「確かに‥‥女は男に守られる方がいいと思ってる。」
  「‥‥」

  彼の持論はそうだった。
  でもな、とすぐに口を開く。

  「男だろうが、女だろうが‥‥大切なヤツを守るのに命を掛ける事は正義だ。」

  大切な人のために命を掛けて‥‥
  戦うというのは紛れもなく正義。
  男であろうが、
  女であろうが、
  老人であろうが、
  子供であろうが、
  そんなものは関係ない。

  大切なものを守るために戦うのは‥‥何があっても、正義なのだ。

  だから‥‥

  「‥‥気にすんなってことだ。」

  くしゃ、と原田は優しく笑ってその頭を撫でた。
  小さな頭を撫でれば、少しだけ困ったような顔で‥‥彼女は笑った。
  どこか‥‥安心したように。
  笑った。

  自分は間違っていないのだと――そう言われて‥‥安心して笑った。



  「ああでも‥‥」
  と彼は言う。
  「俺はおまえが女で良かったと思ってるぜ。」
  例えば、自分よりも体力がなくても、小さくても、彼女が女で良かったと思う。
  そう言われてむぅっとは唇を尖らせた。
  どうしてと言いたげなそれににやりと笑いかければ、

  「‥‥おまえが男なら‥‥こういうことは出来ねえだろ?」

  尖らせた赤い果実を思わせる幼い唇を軽く奪うと‥‥彼女は驚いたように目を丸くするのだった。


彼女の正義



自分が女である事を一度は悩んだはず。
でも、それを誰も否定しなかったはず。