ざばー

  という湯の流れる音が何度も聞こえる。
  ふわふわと暢気そうな湯気が格子戸から溢れ出て‥‥土方はなんとはなしにそれを見つめていた。

  仕事があると持ってきた書類は手つかずのまま、男の手の中に在る。

  こんな所で仕事など出来るはずがなかった。

  何故ならその壁を隔てた向こうに‥‥その人がいるのだから。

  「土方さん?
  起きてますー?」

  唐突に声を掛けられ、ぎくっと男は肩を震わせた。
  別に疚しいことなど何もしていないのだから慌てる必要もない。
  だというのに、男の声は強ばった。

  「あ、あったり前だろうが!」
  「何慌ててるんですか‥‥?」
  くすくすと零れる笑い声が反響し、その後にまた湯が流れる音が重なる。

  壁を隔てた向こうに‥‥彼女がいる。
  そう、一糸まとわぬ姿の彼女が。

  何故なら‥‥は入浴中なのだから。



  男所帯の新選組の中で、男装をしているとはいえ女であるは毎夜‥‥皆が寝静まった後隠れて入浴していた。
  以前間違えて斎藤がその入浴中に入ってしまったという事があってからは、誰かが見張りとして‥‥とはいっても、専ら
  斎藤が見張るのだが‥‥つくことになっており、
  その斎藤は今日、夜の巡察が入っていると言うことで番が出来ず‥‥なら自分が見張りを買ってでたのだが‥‥

  なんというか、この時間は結構、辛い。

  壁一枚隔てた向こうに裸のままで彼女がいるのかと思うと‥‥色々と頭の中が大変な事になっていた。
  そんなに自分は色沙汰に対してがっついているというわけでもなければ、たまっているわけでもないというのに‥‥
  男の頭の中は妄想が暴走中だ。

  考えまい考えまいとすればするほど、邪な考えが頭を過ぎって、それならば仕事をしてやろうと思うのに、中から聞こえ
  る音が気になって‥‥集中できない。

  まあそれも仕方のない事なのかも知れない。
  入浴している相手が、男の‥‥惚れた女となれば、心が騒ぐのも。

  「つぅか‥‥いちいち話しかけるなってんだよ。」
  ああくそ、集中できねえと土方は唸りながらやけくそ気味に書物を広げる。
  難しい文字でも見ていればそのうち気にならなくなるだろうと思っていたのに‥‥

  「土方さん?」

  から、と引き戸が開けられ彼はぎっくーんとあからさまに肩を震わせて飛び上がった。
  振り返れば薄く開いた戸からが顔を出している。
  入浴していたのだから当然、その肌や髪は濡れていた。
  その肌を‥‥色っぽく染めながら‥‥

  「‥‥な、なん、だよ‥‥」

  喉の奥に声が張り付いて変な声が出た。
  狼狽えているのが自分でも分かる。
  ああくそ、ガキじゃあるまいしと自分を罵った所で‥‥一気に上昇する体温と、早くなる鼓動が‥‥頭を冷静にさせてく
  れない。

  はじっと土方を見た。
  真剣な眼差しでじっと‥‥見つめて、やがて、

  「‥‥いい、ですよ。」

  すっと恥ずかしそうに視線を落として、そう告げる。

  ――なにが――

  どくんっと男の心臓が一際強く鳴った。

  なにがと問いかける眼差しに、はちろりと‥‥恥ずかしそうに横目で、見て、

  「‥‥土方さんなら‥‥私の全部‥‥見せてあげても。」

  いいですよ、と甘ったるく告げる。

  男の思考が、一瞬にして、止まった。
  なにも、まともに、考えられなくなった。

  「‥‥‥‥‥」

  ぱたっと濡れた髪から滴がしたたった。
  その一滴さえも艶めかしく感じ‥‥男は衝動的にその手を伸ばしたい気分だった。

  しかし、

  「なーんちゃって。」

  次の瞬間、照れたそれが意地の悪い笑みへと変わって、男は呆気に取られる。

  「やだな、冗談に決まってるじゃないですか。」
  「‥‥じょう‥‥だん‥‥?」
  「当たり前でしょ?
  まさか、本気にしたんですか?」

  は意地悪く男を見て、からかうように言う。

  「助平。」

  そうして、
  ばしん、と戸を閉めてしまう。

  残された男はやはり呆然と閉まった戸を暫く見つめて‥‥

  「〜〜〜っ!」

  悔しげに声にならない声を上げる男に、暖かな湯の中ではあははと笑った。


  ふりまわされるのはばかりか



  たまには慌てる副長が書きたい。