今日は特別な夜だから、少し奮発して夕食を食いに行こうと思った。

  海辺に、この間見つけたいい店がある。
  多少値は張るが‥‥なかなか美味かったからそいつも気に入ってくれるだろう。

  少し遠いけど車を飛ばせば夕食には間に合う。
  だから‥‥一緒に。


  「私、今日は行きたいお店があるんです。」


  だけど、俺が最後まで言いきるよりも先にそいつは言った。
  普段俺に任せきりのそいつが、
  行きたい店があるとはっきり。

  まあ、あの店には今度行けばいいか。
  それよりも、そいつの数少ない我が儘とやらを叶えてやりてえと思った。



  「へい、お待たせ!」

  賑やかな店内に、店のおやじの威勢のいい声が響く。
  どんどん、と俺たちの前に置かれたのは‥‥二つのどんぶりだ。
  味噌の、いいにおいがした。
  いや、美味そう、なんだけどな‥‥
  でも、

  「おい、。」

  俺は半眼でそいつを睨んだ。

  「行きたい店ってのはここなのか?」
  「そうですよ。」

  はにっこりと笑って頷く。

  「このお店有名なんですよ。
  この間テレビでも取り上げられて‥‥」
  いや、有名なのは店の外の行列を見てよく分かる。
  美味いと聞けば食べてみたくなるのも分からなくもねえ。

  だが‥‥

  「なんで、ラーメン屋なんだよ。」

  が行きたいと言った店は、一流レストラン‥‥とはほど遠い、一軒のラーメン屋。
  小太りのおやじが経営してる小さな店だ。
  テーブルやら椅子やらを見ると相当の年季が入っている。
  天井なんかは油で茶色く汚れて‥‥お世辞にも綺麗とは言えない店だった。

  「味噌ラーメンが食べたかったから。」
  「‥‥」

  真顔で言われ、俺は双眸を細める。

  ゆらと、の前に置かれたどんぶりから湯気が立ち上っている。
  勿論宣言通り‥‥中は味噌ラーメンが入っていた。

  普通は、だ。
  女がデートで一番嫌う店がラーメン屋だと思う。
  啜る姿を見られたくないとか、汁が飛ぶとか、そういう理由で、普通は嫌がる。
  だから、例えばラーメン屋に入っても、女が選ぶメニューは炒飯とか、そういう飯の類だろう。
  なのに俺の目の前に座っている女は‥‥しっかりとラーメンを注文した。

  一杯700円のラーメンを、だ。

  「普通は年上の男と付き合ってたら、洒落た店に行きたいって言うもんなんだけどな‥‥」
  「んーお洒落じゃないですけど、ここも味があっていいじゃないですか。」

  にっこりと笑って箸を差し出された。
  俺は無言で受け取る。

  「さて、それじゃいっただっきまーす。」

  合掌して、ぱきん、と箸を半分に割り、
  嬉しそうに麺を掬い上げた。
  そして、口に運ぶ。

  「‥‥うん、美味しい。」
  「ああそうかよ。」

  彼女の感想にも、俺はあんまりいい返事が出来なかった。

  くそ‥‥こんなはずじゃなかったのに。

  俺は内心で舌打ちをした。

  こんなはずじゃなかった――

  「‥‥」

  そっとポケットの上からそいつをなぞる。
  そこに収まっているのは、掌に乗るほどの小さなケースだ。

  俺は今日、それを渡すはずだった。

  でも、

  こんなムードの欠片もねえような場所で、それを渡せるわけがねえ。

  ケースの中に入ってるのは、

  ダイヤの、
  プラチナリング。

  それは、

  の一生を決めるだろう贈り物――

  それを、

  「‥‥」

  こんなムードのねえ、安いラーメン屋なんかで渡せるわけがねえ。

  俺は散々この日を待った。
  一年以上待って‥‥漸く今日、渡せると思った。
  なのに、こんな場所で渡せるわけが‥‥

  「土方さん食べないんですか?」

  手を着けない俺に気付いてが首を捻った。
  難しい顔をして黙り込んでいた俺に、もしかしてラーメン嫌いでした?と見当違いな事を聞いてくる。

  なんだか‥‥俺は拍子抜けしたというか、入れすぎていた肩の力が抜けたというか‥‥

  「‥‥まあ、いいか‥‥」

  溜息と共に苦笑を漏らした。

  そうして頭を振ると持ったままだった箸をぱきんと割って、

  「‥‥うん、美味い。」

  まだ熱い、ラーメンを食う。
  ふわりと口の中に広がる味噌の香りは‥‥確かに美味かった。

  行列が出来るだけ、ある。
  まあ、綺麗とは言えねえ店だけど‥‥な。

  「よかった。」

  そんな俺を見て、は嬉しそうに口元を綻ばせる。
  それから、

 「今日は私が奢りますからね。」

  なんて意気込んで言うもんだから俺はくっと喉を鳴らして笑う。

  「ばーか。
  そういうわけにはいくか。」
  例え値段が安かろうが高かろうが、俺はこいつに飯を奢られる気は‥‥ねえ。
  それは今までも、それからこれからも。
  そいつの恋人になった時点で、なくなった。

  なんでですかと不満げにが唇を尖らせる。
  俺は当然だろうと口角を引き上げて、笑った。

  「彼女を守るのが彼氏の義務だ。」
  「‥‥奢って貰うのって‥‥それと関係あるの?」
  「彼女の食を守ってんだよ。」

  えい、と自分のどんぶりに入っていたチャーシューをのどんぶりに移す。
  そうしたらそいつは驚いたような顔をして、それから、

  「なにそれ。」

  と苦笑を漏らして、俺が入れたチャーシューを美味そうに食った。


  幸せそうな顔を見ながら、俺はもう一度そっと‥‥ケースをポケットの上からなぞった。

  彼女のその細い指に嵌るはずだったリングを。


  猶予が与えられた――

  それは、俺に対して?
  いや違うな。

  きっとそれは‥‥彼女の‥‥猶予。


  ほんの少しの猶予を君に




  プロポーズ失敗(笑)
  土方さんにはちょっと残念な所があっていい。