「自分は、さんに惚れています」

 面と向かってそう土方に言ってきた男がいた。
 彼の名前は佐伯新太郎。つい先日入ったばかりの新人隊士である。
 別に目立った特技もなければ、問題児というわけでもない。真面目でどちらかと言えば控えめな男であった。故に、土方の目には留まりにくいだろう。それでも何故彼の名前を知っているのか……と聞かれると、理由は『彼女』に関わる事だからだ。
 そう彼も今し方、口にしたその人、
 に関わる事だから。

さんが、好きです」
 佐伯は真っ直ぐに上役の目を見ながら言う。
 彼女が好きだと、彼女ではない人間に向かってきっぱりと。

「出来れば、一緒になりたいと思っています」

 それがどうした。
 そんな事、俺に言うな。
 と男は言ってやりたい。
 が、彼だからこそ、それが出来なかった。

 俺には関係のない事だとも、そんな事本人に言ってやれとも。
 何故なら土方も目の前の男と同じ想いを抱いているから。

――が、好きだ――

 だけれども目の前の男のように真っ直ぐに言えないのが男の不器用さなのである。



「部屋が一つ足りねえからおまえの部屋を明け渡さなくちゃならなくなった。だから今日からこの部屋で寝起きしろ」
 新しい仕事はこれだと分厚い書類の束を彼女に手渡しながら、間にそんな言葉を挟み込む。
 まるで仕事でも命じるかの如く淡々とした口調で、今日から自分の部屋で寝起きをしろだなんて。
「はい…………えっ?」
 もそれが命令だと思ったようで一度は返事をするものの、違和感に気付いたらしく驚きの声を上げてその手を止めた。
「……今、なんて?」
 聞き返され、くそ、と土方は一つ内心で悪態を零す。仕事の話の流れで彼女の言質を取ってやろうと思ったのに、やはりこの女には通用しなかったらしい。
 冷静に考えれば言葉の不自然さに気付くだろうから出来れば二度も言いたくなかったのだが。
 だから、と土方は八つ当たりでもするように低く呻く。
「部屋が足りなくておまえの部屋を明け渡さなくちゃならねえから、今日からこの部屋で寝起きしろ」
「……えっと、確認しても良いですか?」
 先程はいと素直に応えた彼女の反応は、慎重だった。三度くそ、と土方が呻く程に。
「なんだよ」
「この部屋っていうのは、ここの事ですよね?」
「そうだ」
「分かっていますけど改めて確認だけさせてください。この部屋は土方さんのお部屋で、この部屋で土方さんも寝起きされてるんですよね?」
「ああ」
「つまり、その土方さんの寝起きしている部屋で私も寝起きをすると言う事で正しいですか?」
 そうだ。
 迷いもせずきっぱりと男が頷けば、はそうですかと一つ呟いた。
 それから一度だけ視線を下へと落とし、腕に抱いた分厚い書類の束を見つめると、漸く答えが出たようで、

「それなら私、今日から平隊士と同じ部屋で寝起きします」
「ちょっと待て!!」
 なんて言ってぺこりと頭を下げていってしまおうとするので慌てて土方は引き留める。
 よりによってなんでそこなのだ。まだ倉庫で寝起きするとか、宿を取るとか言うならまだしも、平隊士の部屋なんて以ての外である。
「おまえ分かってんのか!? あの部屋は男だらけなんだぞ!」
 しかも女に飢えた獣ばかり……などと言えば彼らは憤慨するかも知れないが、その通りだ。戦続きでろくに遊ばせてやる事も出来ていない。そんな中に女である彼女を放り込めばどうなるか、なんて想像するだけで恐ろしい。
「大丈夫ですって。間違いなんて起こりませんよ」
「なんで言い切れるんだよ! おまえだって女だろうが」
「でもほら、女と言っても私ですし」
 だから間違いを心配してるんだろうがと男は叫びたくなる。
 まあ隊士の中にはまだを男だと思っている人が多いだろう。でも、彼女が女だと気付いている人間も確かにはいるのだ。そしてその中には彼女に懸想している人間もいる。いや、懸想していなかったとしても彼女程良い女が隣ですやすや無防備な寝姿を曝していてむらっとこない男などいない。
 自分とてきっと手を……と話は反れたが、とにかく危険すぎる。他の男以上に、あの部屋にはあの男がいるのだから。
 を好いていると面と向かって宣言した、佐伯という男が。
 もしを部屋にやったりなんぞしたら何が起こるか。
「駄目だ!」
 ぶんぶんと土方は頭を振って脳裏に浮かび掛けた光景を消す。
 佐伯と彼女がどうにかなるなど想像したくもない。いや、それ以外の平隊士とだってそうだ。考えたくないし、させて堪るかと思う。
「とにかく、おまえの部屋はここだ」
 ぴしゃりと言い切ればは慌てた様子で反論してくる。
「で、でもそれじゃ土方さんが休めないじゃないですか」
 自分が此処にいたのではゆっくり休めない。だから平隊士の所で寝起きするというのか、冗談ではない。そちらの方がおちおち寝ていられないというものである。
「これはもう決めた事だ」
「で、でも」
「命令だ」
「っう……」
 命令と言い切られてしまえばには拒む事が出来ない。此処にいる限りは彼の命令は絶対なのだから。
 だけどそれでもやっぱり承伏しかねる。彼にはゆっくりと休んで欲しいから。だから自分がいたらゆっくり休めるわけがないのだ。それに正直、だって、
「私、ここじゃゆっくり休めない」
 彼と同じ部屋で眠るなんて、とても出来そうにない。
 ――だって相手は好きで他の全てを捨ててここまで追いかける程愛しい男なのだ。そんな相手と一つ屋根の下、しかも同じ空間で寝起きなど、普通は無理だ。だってそんなの心臓が保ちそうにない。今だって、こうしている時だって心臓が早鐘を打つように高鳴っているのだ。それが夜も一緒だなんて考えただけでどうにかなってしまいそうだ。きっと眠れないだろうし、は一日中どきどきしていなければならない。正直、心臓に悪い。
 それに……これは我が儘かも知れないが、彼に見られたくなかった。眠っている最中の自分の姿や、寝起きのだらしない姿を。寝相が悪かったり、鼾を掻いていたり、涎を垂らして間抜けな寝顔を曝していたりなんぞしたら……考えただけで嫌だ。それも偽らざる自分の姿かもしれないけれど、出来れば格好悪い所は見せたくない。これが乙女心というやつなのだ。
 だけど、
「俺よりも、あいつらと一緒の方が安心出来るってのか?」
 乙女心というやつは男には分からないらしい。



 ぽっかりと空に白い月が浮かんでいる。満月だ。
 その月の輝きに負けじと星々もきらきらと瞬いていた。
 蝦夷は空気が冷たいせいなのか、星も月もよく見える。は最初に蝦夷を訪れた時、こんなに星というのが多かったのかと驚いた程であった。今でも驚く事はあるが、それよりも美しさに見とれてしまう。風情などまるで解していないがこの夜空だけは見事であると。
 しかし、
「……」
 ちらとは窓の外から視線を室内へと移した。
 机に向かったまま黙々と筆を動かし続ける男の方へと。怖い顔で手元を睨み続けるその人へと。
 朝からずっと、机に齧り付いたままだ。時折席を立つ事はあってもそれはほんの少しの間だけ。食事も水も手付かずでずっと仕事を続けている。それでは身体に悪いだろうと思っても、どうにも声を掛けるのは躊躇われた。
 それは彼が不機嫌であるからで、そして彼の不機嫌な理由が自分にあると知っているから。
「俺よりもあいつらと一緒の方が安心出来るってのか?」
 そんな事を怖い顔で言ってから、彼は一切口を利いてくれなくなった。
 すぐに違うと否定したのだけどどうやら相当怒らせてしまったらしい。まあ怒るのは当然かもしれない。彼より他の男と一緒の方が気が休まると言ってしまったのだから。決して悪い意味ではない。彼が言ったように他の男の方が安心出来るわけではなく、誰より土方を信頼していると断言も出来る。でも同じように自分が言われたらやはり彼と同じように解釈してしまうに違いない。そうしたら怒らないけれど悲しいとは思う。だから悪かったと謝ったけれど、彼は聞いてはくれなかった。何度声を掛けても、返事はない。
「あの、」
 は纏めた書類を彼の方へと持っていき、声を掛けてみた。当然これにも返事はない。視線さえ上げて貰えなかった。
 悲しくなって苦しくなって、視線も、声も落ちた。
「おわり、ました」
「……」
 彼は無言で机の上をとんとんと指し示す。此処へ置けという事らしいが、その反応にさえは落ち込む。
 自分が酷い事を言ったのは悪かったけれど、無反応というのは辛い。怒っているならば怒鳴られる方がマシだ。そんな風に何も言って貰えないのは辛い。見て貰えないのはもっと。
 いっそ逃げ出してしまいたいと思うけれどそれも出来ない。は今夜から、この部屋で寝起きをしなければならないのだ。これで部屋を出れば一層彼を傷つけるし、拗れる事になるだろう。
「そろそろ、休みませんか?」
 返事はないと分かっていても声を掛けてみる。手が止まった。
 彼はには視線を向けずに窓の外を見て、やがてゆっくりと立ち上がった。
 そうして手早く机の上を片付けると無言のまま続きの寝室へと姿を消してしまう。
 おやすみさえ言わせて貰えないのかと肩を落とせばすぐに扉の向こうから男が姿を現した。どうしたのかと見ればその手には薄手の上掛けが握られており、
「あ、のっ」
 彼はやはりの方も見ずに長椅子へと寝転がった。
 どうやらそこで眠るらしい。長身の彼にはきついだろうに、足を肘掛けの上へと放り投げ、腕を組んで目を閉じてしまう。
「あの、私がここで、」
「向こうで寝ろ」
 は慌てて口を開くけれど皆まで言わせて貰えず、冷たい声でぴしゃりと言い切られてしまった。
 彼に休んで欲しいと思っているのにそういうわけにはいかない。けれど、反論は出来なかった。土方はこれ以上の会話は不要だと言わんばかりに顔まで上掛けを被ってしまったから。
「おやすみ、なさい」
 返事はやはりなかった。
 それが悲しいと思いながら、はとぼとぼと歩き出すしかなかった。

 彼女が灯りを消したらしい。ふ、と上掛けを被っていても辺りが暗くなったのが分かった。
 とぼとぼと力無い足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
 暫くそのままで静けさを味わっていたものだが、妙に息苦しさを覚えて仕方がない。ああそういえば、上掛けを被っていたのだったと思い出してばさりと顔からはぎ取ってみた。
「……」
 見慣れた天井を見ながら、息を一つ二つと繰り返す。
 顔を覆っていたそれを引き剥がしたお陰で呼吸は楽にはなったが、息苦しさは消えない。
 何故か、考えるまでもなかった。
 自分のせいだ。
 あんな事で彼女に当たり散らしてしまった自分の幼稚さに、そのせいで彼女にあんな悲しそうな声を出させた自分への不甲斐なさに、怒りと情けなさが募って仕方ない。それが腹の奥から胸の奥まで詰まって、苦しくさせるのだ。
 ただ悪かったと謝れば済む事だったのに、意地になって彼女にあんな仕打ちをする必要など無かったはずなのに。そうした事で自分に返ってくるだけだと分かっていたのに。
「俺は、駄目だな」
 はぁと一つ深い溜息が漏れる。
「あいつを、傷つけてばっかりだ」
 傷つけて悲しませて、苦しめてばかり。
 あの時もう傷つけたくないからその手を離したのに。彼女には幸せになって欲しかったから手放したのに。
 そしてあの時もう二度と傷つけないように手を取ったのに。笑顔にしてやる為に傍にいると決めたのに。
 それなのに、また傷つけた。
 下らない事で意地を張って、彼女を悲しませた。
 ただ好きで、守ってあげたい。笑顔にしてあげたい。幸せにしてあげたい。それだけなのに、上手くいかない。
「これじゃ、よっぽど佐伯の方が良いじゃねえか」
 自分なんぞよりもずっとずっとあの男の方がましだ。
 少なくとも自分みたいに意地を張って、を悲しませたりする事はないだろう。
 真っ直ぐな男だから。自分みたいに捻くれてたりなんかしないから。
 喧嘩をしてもすぐに謝ったに違いないのだ。意地を張って彼女を傷つける位なら、あの男は自分の意志を曲げてでも頭を下げただろう。
「まったく、情けねえ」
 誰にともなく一人ごち、土方は腕で目元を隠す。誰も見ていないと分かっていても、もうこれ以上情けない姿を曝したくなかった。
いや、そもそも最初から自分はみっともない事をしているじゃないか。
「焦って、あいつを閉じ込めようとしたんじゃねえか」
 佐伯のあんな台詞に動揺して、彼女を部屋に閉じ込めようとしたんじゃないか。
 好きだと、一緒にいたいと思っている。そう彼女に言おうと思う。そんな真っ直ぐな想いに恐れて、彼女を閉じ込めた。彼の一途な想いがに届かぬように。違う。その一途な想いに彼女が揺らぐ事が怖かった。それ自体がもう彼女に対する酷い裏切りだ。は自分を想ってここまで追いかけてきてくれたのに、その気持ちを疑ったのだから。
 でも、怖かったのだ。
 彼女の事を心底愛している。だから、奪われたくなかった。
 ずっと自分だけを想っていて欲しい。自分だけのものでいてほしい。
 もし彼女が他の男を見つめたりなんてしていたら醜い嫉妬心でどうにかなってしまいそうな程、彼女が愛おしくて仕方がない。
 だから隠して、閉じ込めようとした。
 誰の目からも遠ざけて自分だけのものにしようとした。
 それで安心していた自分は、なんと矮小な男なのだろう。

 ――私を幸せに出来るのは、もう世界でたった一人なんです。

 彼女は自分を追いかけて、何と言ってくれた?
 嗚咽に言葉を詰まらせながら、必死に何と言ってくれた?

 ――あなたしか、私を幸せに出来ないんです

 彼女は言ってくれたんじゃないか。
 自分がいればそれだけで良いと。それだけで幸せだと。他に何も要らないと。
 真っ直ぐで純粋な想いを、ぶつけてくれたじゃないか。
 好きだと。自分だけが好きだと。
 その気持ちは偽りではなく真実だと分かっていたじゃないか。
 何故、あの時、佐伯に言ってやれなかったのだろう。
 言えるものならば言ってみろと。だけど彼女が好いているのは自分だけだと。
 何故言ってやれなかったのか。何故信じてやれなかったのか。の一途な想いを。
「くそったれが」
 吐き捨てた声には力はない。どんと背もたれを叩く拳にも。
 苛立ちだって紛れずただ物に八つ当たりをした事で情けなさに拍車が掛かっただけ。


 それから、どれだけそうしていただろう。
 情けない顔を腕で隠して、情けない自分を心の中で罵倒し続けていただろう。
「土方さん」
 きしりと床を軋む音を立てたかと思えば、突然、驚く程近くで彼女の声がした。
 一瞬聞き間違いかと思ったが、もう一度降ってくる声は幻ではない。確かに彼女の声だ。
 いつものように気配を殺して近付いてきたようだ、驚かせるなど何度も言ったのだけど長年の癖は消えないらしい。
「……起きて、ますか?」
 こちらを気遣って、いつもよりも低く抑えがちな声で訊ねてくる。
 土方は一瞬寝たふりを決め込もうとした。が、そうするとまた自分が情けない男になってしまう気がして止めた。
「起きてる」
 それでも声が尖ってしまう自分がやはり情けない。
 謝らなければと思っているのに何故、そんな声になってしまうのだろう。
「……すみません、その、どうしても話がしたくて」
 そんな自己嫌悪の嵐に陥っている事など気付かず、は辿々しく言葉を紡ぐ。
「あの、別に聞き流してくれても構わないので、聞いてください」
 出来ればちゃんと聞いて欲しいけれど、とは心の中でだけ言う。
 は一度言葉を切ると、視線を落とした。
 さっきからあれこれ考えているけれど、未だに何から言えばいいのか分からない。普段はぽんぽんと可愛げのない言葉が出る癖に、こう必要な時に動かない自分が心底厭わしい。そんな事を今更呪った所でどうしようもないのだが。
「……」
 たっぷりと開いた間に、少々居心地の悪さを覚える。
 だからといって「早く言え」と言う程男も鬼ではない。ただ空気をほんの少しばかり緊張させてしまった事は確かだ。が慌てて口を開いたから。
「その、ごめんなさい」
「……」
 飛び出した謝罪の言葉に男の眉間には皺が刻まれる。腕の下で隠れているがそれは怒っているというよりは困っているに近い。
 何故彼女が謝るのか。謝るべきは自分だというのに彼女に謝られると更に情けなくなるじゃないか。
 そう思っても口にしなければ伝わらないもの。またの言葉を止める事も出来ない。
「さっきは、土方さんに酷い事を言っちゃいました」
 それはあの言葉を指しているのだろう。
 自分と一緒だとゆっくり出来ないと言う聞き捨てならない台詞。
 確かにあの台詞は酷い。ちょっとどころではなく、だいぶその台詞に傷ついたのは確かだ。なんせ自分の傍では休めないけれど他の男の傍ならば休めると彼女は言ったのだから。
 それを好きな女から言われたらそりゃあ傷つくし、落ち込む。とは言ってもその後の自分の態度は褒められたものではないし、謝ってくれた事を考えれば謝るべきは彼女ではなく自分の方だろう。だからもう謝ってくれるな。彼女の言いたい事は分かっているし、これ以上謝られると本当に情けなさ過ぎて顔向け出来なくなる。
「でもね、あれは土方さんを信用してないとかじゃなくて……」
 言いかけた言葉がまた、止まる。
 止めたのは結局同じ言葉の繰り返しだと分かったから。昼間同じ言葉を何度も言ったけれど彼は聞き入れてくれなかった。あの時は純粋に拗ねていたせいだが、今は違う。同じ事を言われたら分かったと納得してやれるがはそんな男の気持ちは分からない。
 ちゃんと自分の気持ちを伝えるにはどうすればいいか、は考えた。
 そうして、見付けた言葉が柔らかな唇から零れる。

「土方さん、好きです」

 唐突な告白に驚いてしまった。
 思わず腕を解いて長椅子の上に上体を起こせば、背もたれを挟んだ向こうにとばちりと目が合う。瞬間、は心底嬉しそうな顔になった。顔が見られただけでそんなに嬉しそうな顔をするとは本当にどうしようもない女である。
 それから、目元を恥ずかしそうに染めて、彼女はもう一度唇を開いた。
「土方さんが、好きなの」
 穏やかな声だが以前好きだと言ったあの言葉よりもずっと甘く、激しい想いが伝わってくる。
 好きで好きで堪らなくて、どうしたらいいのか分からない。そんなの素直な想いが。
「今ね。私の胸、すごいどきどきしてるんです」
「……」
 言われてつい、彼女の胸元へと無遠慮に視線を向けてしまう。
 いつ襲撃があっても良いようにと彼女はいつもと同じ洋装を身に纏っている。だがその下に纏っているサラシも胸当ても取り払い、彼女が本来持つべき膨らみがそこにあって、思わずごくりと喉を鳴らしてしまった。白い洋服の胸元から覗く甘い谷間をつい覗き込んでしまいそうになる。
「土方さんと一緒だから」
「……っ……」
「好きな人と一緒だと、すごいどきどきするんですよ」
 苦しいくらいにとが苦笑した瞬間、男の鼓動もどきどきと高まっていった。
 どくどくと徐々に早くなっていき、その速さに呼吸も乱れてくる。まるで全速力で走った後のようだが、しかしこれはどれほどに呼吸を繰り返した所で収まらない。目の前にその人がいる限り。
 成る程と土方は思う。このままでは確かに苦しくて堪らない。彼女がゆっくりと休めないと言うのにも納得が出来る。彼とて同じ気持ちだからだ。いや、ある意味では彼女以上に、彼の方がゆっくりなど眠っていられないだろう。
 無防備な寝姿などを見てしまっては、きっと手を出さずにはいられない。
「……俺の、考えが足りなかったみてえだ」
 苦い顔で、ぽつんと土方は零した。そうして視線を落として悪いと短く謝罪をすれば、はふるふると飴色を柔らかく揺らしながら頭を振ってくる。
「土方さんが悪いんじゃないです」
「いや、俺の考えの甘さが招いた事だ」
「でも、私が、」
「良いから」
 ほんの少し、語気を強くして彼女の言葉を遮った。
 怒ったと思ったのか、華奢な肩がびくりと震える。それを見てまた悪いと小さく呟き、自分の恰好の悪さにがりがりと首の後ろを掻いて一つ溜息を零した。
「頼むから、俺が悪い事にしておいてくれ」
 これ以上彼女に庇われたりしたら堪らない。
 どうせ彼女には理由だって明かせないのだ。格好がつかなくて。だからその罪滅ぼしではないが、この一件は全て自分が悪いと言う事にしておいてほしい。
 困ったような顔で何か言いたげなに、土方は苦笑で言った。
「良いから、おまえは何も気に病む必要はねえんだよ」
 そうしてくしゃと髪を優しく撫でられると、もう何もかもがどうだって良いような気がしてくる。どちらが悪いのかも、どんな理由があったかも。だって彼はこうして自分を見て、自分に話しかけて、触れてくれる。こんなにも優しく。それで……十分だ。
「はい」
 ふわりと零れる笑顔に、どきっとまた、男の心臓は強く震えた。
「……そ、んじゃ。これで手打ちって事で」
 何故か土方はこほんと咳払い一つで話題を終わらせると、もう寝ろと促してくる。
「明日も早いだろう」
「え、あ、はい。そうですね」
「じゃあ、とっとと部屋に戻れ」
 部屋に戻ってもう眠ってしまえと言われ、は首を捻った。
「土方さんは此処で休むんですか?」
 此処というのは長椅子の上の事を指すのだろう。
 当然だ。さっきからそうだったじゃないかと頷くと彼女は駄目ですと強く首を振った。
「こんな狭い所じゃゆっくり休めません。寝台で眠ってください」
「寝台って……てめえはどうするつもりなんだよ」
「勿論。椅子で寝ます」
 きっぱりと答える彼女のそれに今度は土方が反論。
 馬鹿か、と眉根を寄せて苦い顔になる。
「俺に「女を窮屈な所で眠らせる酷い男」になれってのか?」
「私が望んでるんだから酷い男になりません」
「却下」
「なんで!?」
「俺が嫌だ」
 こんな狭苦しい所で彼女を眠らせるなんて絶対に嫌だ。自分よりも忙しく働いている者に出来る仕打ちではない。
 それに……こんな所で眠っていて、万が一誰か入ってきたらどうするというのだ。他の男に彼女の寝顔なんぞ見せてやるつもりはないのだ。絶対に。
 無論、逆の立場のとて譲れない。こんな狭苦しい所で土方を休ませるのなんて駄目だ。司令塔である彼にこそ、しっかりと休んで貰うべきなのである。
 とまあお互いの意見は平行線だ。
 もう夜も更けたこんな刻限に、長椅子の背を挟んで男女が二人で言い合いをしているという構図もなかなか無いだろう。しかも好き合っている者同志がだ。もっと色っぽい展開はないのかと誰ぞは溜息を吐くだろう。
「……それじゃあ」
 も土方もお互いに一歩も譲らない。このままでは二人睨み合ったまま朝を迎えてしまう事になる。こうなればとは折衷案になる案が一つ浮かび、だがそれを口にして良いものかと躊躇いがちに口を開いてみた。
「寝台で一緒に寝る、ってのはどうですか?」

 驚くあまりたっぷりの間を空けた後、土方はものすごい勢いで彼女を怒鳴りつけた。
 しかし「それじゃあ私が椅子を使います」と言われるとそれ以上に何も言えるはずもなく、

 ――広い寝台で、二人は共に眠る事となった。



 静かな夜だった。風の音も聞こえなければ虫の音も聞こえない、静かな夜。
 まるで二人に気を遣って物音を立てぬようにでもしているのか、それとも互いが気になりすぎて相手の音しか聞こえないのか。
何も聞こえない。静かな空間だ。
 だからこそ余計に自分の立てる物音が気になってしまう。身動ぎの度に立ってしまう衣擦れの音や、寝台の軋む音。呼吸さえ気になってさっきから浅い呼吸を繰り返している。鼓動も早く大きくて、聞こえてはいけないと思うあまりに身体まで緊張してとてもとても眠れるという状況ではない。
 まるで色恋に慣れぬ初な子供のようではないか、と土方は己を笑った。ふっと零した音さえ大きく聞こえて、漏らしてからぎくりとしてしまう。
「……」
 には聞こえてしまっただろうかと少しだけ身体を起こして見遣れば、彼女は背を向けたまま、動かない。
 身動ぎ一つしないのだが、もしや眠ってしまったのだろうか?
?」
 試しに声を掛けてみる。
 返事がなかったので眠ってしまったのだろう。しかしこちらは悶々と考えるあまりに眠れないというのに先に眠ってしった彼女が恨めしい。さっきどきどきしてどうにかなりそうと言っていたのは誰だったのか。
 くそ、と内心で舌打ちをし、こうなったら無理矢理にでも目を閉じて寝てやろうと瞼を閉じた瞬間、控えめな返事があった。
「はい」
 だった。それは寝起きのそれではなく、覚醒した声だ。
「なんだ、眠ってなかったのか?」
「眠れなくて……」
 どうやら彼女も眠れなかったらしい。
「もしかして緊張してんのか?」
 自分の事を棚に上げて意地悪く問えば、彼女は言葉に詰まってしまった。
 その、と口籠もった様子でもごもごと言ったかと思えば、深い溜息を吐いて彼女は心の内を吐露する。
「して、ます」
「……」
 どうして、彼女はそう素直なのだろう。今まであんなに頑固で意地っ張りだったのに。いや、それは今も大して変わらないが、どうしてこう素直になって欲しくない時に素直になるのか。
 ここで素直になられたら、男としては堪らないものがあるというのに。
 ぐ、と拳を握りしめて背筋をじわじわと上ろうとするものを抑える。それは男の浅ましい欲望というものだ。好いた女にならば当然抱くべき感情。この女を抱いてしまいたいという気持ち。どこまでも甘やかして、突き落として、自分だけのものにしてやりたいという願望。これは男であれば当然持っているものだと土方は思っている。逆に好きな相手にそう思わない男は男ではないと言っても過言ではないとさえ。
 それでも、その欲に従うわけにはいかない。だってそうしてしまえば、触れてしまえば、抱いてしまえば、彼女をもう逃がしてやれなくなるのだから。
 彼女にその胸の内を吐けばきっと目を釣り上げて怒るだろう。この期に及んでまだそんな事を考えていたのかと。自分の気持ちをまだ理解していないと。罵られても、それでも、まだ男には甘い部分があるのだ。これが心底惚れた弱みというやつなのかもしれない。そして、自分では幸せにしてやれぬという後ろめたさ。
 何度でも言おう。彼は、甘いのだ。
「べ、別に警戒してるとか、そういうんじゃないんです」
 はこちらの想いなど知らず、妙に明るい声で言葉を紡いでいる。緊張を誤魔化そうとしているのだろうが、声が上擦っていた。
「私、がさつだし。針よりも刀が似合うくらいだし」
 恰好だって男のそれだし、所作も乱暴。可愛げだってないのは分かってるとは一人でぺらぺらと喋り続けている。
 一体何が言いたいのか、土方には分からない。
 あれこれと自分の事を言っているが、ようは「女らしくない」と言いたいらしい。そんなものは百も承知だ。今更何をと言ってやりたい気分だ。それがどうしたのかと。
「だから」
 散々、言いたい放題自分の事を言った後、の声が不自然に揺れた。
 その先を言うのを迷うような間を置いて、唇から少しだけ拗ねた音が漏れたのだ。
「土方さんが、私に手を出すなんて、あり得ない」
 分かっている。
 だけどほんの少し、ほんの少しだけ、期待してしまうのだ。
 彼だって男なのだから同じ寝台に女がいて、そう言う気分になる事だってあるんじゃないかと。
 でも同時に分かっている。そんな事あり得ない。
 彼は男だけど自分を律する事が出来る人だ。それになにより、自分などに手を出すはずがないと。こんな女の魅力の欠片さえ持ち合わせない自分などに。

 分かってる。
 は言った。
 分かってない。
 土方は思った。
 この女は何一つ分かっていないと。
 自分がどんなどんな想いでここにいるのか。彼女は何も分からずに好き勝手な事を言っている。
 ふざけるなと悪態の一つくらい吐いても良いところだろう。
 何も知らない癖にと彼女を詰ったって良いところ。
 その代わりに土方は身体を起こし、ぎくりと強張るその肩に手を掛け強く引っ張ってやった。
「……え……?」
 仰向けになった彼女は酷く間抜けな顔をしていた。
 そりゃそうだろう。あり得ないと彼女は思いこんでいたから。
 同じ寝台に入った所で彼が自分などに手を出す事はあり得ない。だって自分はこんなにも可愛くない女だから。女の魅力など微塵もない女だから、だから彼が自分を女だと見る事はない。つまりは彼が自分に不埒な真似をするはずがない。
 そう思っていた。思いこんでいた。
 でも、今の状況は何だ?
 何故自分は寝台に寝転がって彼を見上げている?
 何故彼は自分に覆い被さっている?
 何故、何故。
 同じ疑問がぐるぐると頭の中を回る。その彼女の顔と言ったら、あまりに無防備すぎて笑いが込み上げてくる程だ。そして同時に怒りも。
 ぶちりぶちりと理性の糸を、無惨にも断ち切る音が聞こえてくるのだ。折角、人が我慢して抑えていたものをよくも台無しにしてくれたものだと。
 それと同時にどこかほっとしている自分がいる事に気付く。勝手なものだなと彼は己を笑った。
「な、なんの、冗談?」
 やがて疑問は土方の冗談として片付けられたらしい。があははと乾いた声で笑いながら押しのけようとしてくる。
 その手を掴んで敷布に、自分の五指でしっかりと縫いつけた。
 そうして距離をぐっと近付けて、真っ直ぐに瞳を覗き込んで、言ってやった。

「あり得ねえかどうか――試してみるか?」





「報告は以上です。では自分は引き続き巡察に行って来ます」
「なあ、島田」
「なんでしょう、局長」
「女ってのはよぉ。なんであんなに柔らかいんだろうな」
「…………え?」



 春はすぐそこに



  800000hitの御礼に書かせて戴きました。
  「蝦夷戦最中の土方さんとのくっつきそうでくっつかない微妙な
  関係」というリクエストを戴きました♪
  二人共お互いが好きなのに、はっきりと言えず焦れったい感じで。
  でもお互いが好きだと認めて徐々にお互いの気持ちに素直になって
  いく……まるで柔らかくて、暖かい春の訪れみたいですよねという
  気持ちでタイトルをつけてみたのですが、また駄目方になりました(笑)
  とりあえずあんな事言われて、一体何したんだって悩む島田さんが
  書けて楽しかったです←

  そんなこんなで書かせて戴きました800000hit話楽しんでいただけま
  したら幸いです。
  arcadiaに来て下さる皆様、ありがとうございます。
  そしてリクエスト下さった綾さん、本当にありがとうございます!

  2013.3.10 三剣蛍