14
「さん。」
準備に走り回る彼女を呼び止めたのはのんびりとした彼の声だ。
「あ、山口さん。」
いつも笑顔の彼が‥‥今日はどこか強ばった表情を浮かべていた。
「少し‥‥いいですか?」
と彼は聞かれ、は頷く。
「勿論です。」
隊士に細かな指示を出してその場を離れた。
「明日、発つそうですね。」
人が集う本丸から離れ、巽櫓の方へと向かっていく。
喧噪は段々と遠ざかっていき、しばらくすると長閑な鳥の声が聞こえてきた。
仙台は緑深い場所である。
伊達政宗公が治めていた頃より行われていた植樹政策のおかげだろうか‥‥緑の多さにどこか心が癒された。
気持ちのいい空気を吸いながら歩いていると、彼が唐突に訊ねてきた。
「はい。」
は頷く。
「山口さんは、白河に戻られるんですか?」
問いかけに彼は困ったような顔で笑った。
「そう、ですね‥‥白河には戻れないでしょうし‥‥」
戦いが沈静化しつつある、とは言っても今は新政府軍に統治されている。
旧幕府軍に薬を卸していた彼が戻れば、捕らえら、罰せられる可能性があった。
「‥‥しばらく東北の地をうろついてみようかと思います。」
「そうですか。」
は呟き、すぐに視線を上げて、
「今まで、お世話になりました。」
助かりましたと頭を下げた。
は、土方と共に蝦夷へと渡る。
が、山口は‥‥蝦夷には渡らない。
ここで別れる事となる。
今まで医者として同行してくれてとても助かったが、この先には連れていけないし、ついていけない。
山口は申し訳なさそうな顔で、
「もう少し‥‥お役に立てればいいんですが‥‥」
と言った。
そんなことはない、十分だ。
彼が共にいてくれたことで、命を落とす人は減った。
勿論一人もいなくなったという事はないけれど‥‥彼に処置を施されて生き延びた人間は沢山いる。
それに、
自身もその知識と技を身につける事が出来た。
もう十分だ。
「私たちこそ、何かお礼をしなくちゃいけないのに‥‥」
生憎とそんな時間も余裕もない。
「気にしないでください。
貴重な体験が出来ました。」
彼は笑って言ってくれた。
一瞬だけ、会話が途切れた。
「さんは‥‥蝦夷に行くんですね。」
控えめに聞こえる鳥の声を聞きながら歩いていると、山口がそう零した。
は勿論と頷く。
すると彼は視線を上げて、
「何故?」
と問うてきた。
まさか何故‥‥と聞かれるとは思わず、は一瞬、目を丸くして、
「だって、それが私の道ですから。」
当たり前のように言って、笑う。
戦って戦って、死ぬのが、自分の生き方だ、と彼女は言った。
それを全く迷いもせず言うに、一瞬、山口は悲しげに顔を歪めた。
「本当に‥‥それが君の生き方なんでしょうか‥‥」
彼は思った。
彼女にはもっと違う生き方があるのではないかと。
戦って、死ぬだけの生き方じゃなく、違う生き方があるのではないかと。
「‥‥どういうことですか?」
は僅かに小首を傾げる。
ふわりと柔らかな風が吹き、彼女の髪を揺らした。
ふわふわと春の花よりももっと優しく甘い香りに、男は瞳を眇めて、
「君には、女性としての生き方もあります。」
そう、言った。
さっきまで目の前を走っていた彼女の姿が見えないと思った。
またどこかで無茶をしているんじゃないだろうなと土方は顔を顰め、島田に後を頼むと言い残して持ち場を離れた。
つい先ほどまでは見えるところにいたのだからこの近くにはいるはずだ。
「ったく、病人のくせに。」
だから目を離せないんだと男は一人ごちた。
ふと気付く。
最近の自分は気がつくと、あの飴色の髪を追いかけている気がすると。
自然と、それが当たり前のように彼女の姿を探している気がすると。
「‥‥放っておくと、無茶しやがるから。」
目を離したら何をしでかすか分からないから。
男は自分に言い訳をするように呟いた。
無茶をして怪我をして‥‥
悲しい事も、苦しい事も、全部自分の中に閉じこめて。
何でもないと笑って、誤魔化す。
だから、
見ていないと駄目なのだ。
彼女は嘘が得意で。
我慢するのも得意だから。
見破れる人間がいないと駄目なのだ。
そう、自分が――いてやらないと。
「それは‥‥どういう事ですか?」
なんとも自分勝手な答えが浮かんだ瞬間、声が聞こえた。
の声だった。
なんだか咎められた気がして、何故か慌ててしまった。
視線を左右へとやれば、鐘楼の裏手に彼女の背中が見える。
そしてその前に、彼がいた。
山口だ。
「‥‥なんだ?」
思わず、彼は身を潜め、二人の会話に耳を傾ける。
立ち聞きなんて趣味が悪いと思ったが‥‥足がまるで張り付いたかのように動かなかった。
それは、言い訳かも知れない。
「では単刀直入に言わせてもらいます。」
山口は前置きした。
そうして、
「残って、私と一緒になってもらえないでしょうか?」
彼の口からそんな言葉が告げられた。
――残って、一緒になってもらえないか。
は目を丸くした。
もうこの際、自分が女であると感づかれているというのを追求する気にはなれない。
それよりも、彼の告げた言葉に驚いた。
山口は、に求婚しているのだ。
何故?
とは思った。
「‥‥月並みですが‥‥あなたに、一目惚れをしました。」
照れたように目元を染めながら、だが彼は決して目を逸らさずに言う。
山口という人は、どこか暢気な所があるけれど、本質は真っ直ぐで純粋な人だと言う事は知っていた。
その言葉も嘘ではない。
本気で言っているのだ。
一緒になってほしいと。
そう、
を、嫁に欲しいのだと。
「‥‥私を、どうして?」
どうして自分なのだろう。
は分からないと言った。
だって自分は女らしい所が一つもない、戦う事しか知らない人間だ。
罪人よりも殺めた人の数は多い。
この手は血に染まっていて‥‥汚れている。
そんな自分を――何故?
「私は‥‥あなたの瞳に惹かれたんです。」
山口は言った。
慈しむような、優しい眼差しで言った。
「なんて綺麗な、澄んだ瞳をしているのだろうと思いました。」
裏切りを何度も受け、辛い戦いをくぐり抜けてきたとは思えぬほど、澄んだ、美しい目だと。
「それから、なんて強い瞳だと思いました。」
戦いの最中、彼女が見せた強い眼差しを思い出す。
敵に向かっていく瞬間の、鋭く強い、
迷いのない瞳。
なんてすごい人だろうと思った。
なんて強い人なのだろうと思った。
でも、
「私は知った。」
彼女の本当の姿を。
迷わずに刃を振るいながら、その裏に隠している悲しみを。
苦しみを。
本当は苦しくて、悲しくて、泣き叫びたいくせに、笑顔の裏に隠し続けている事を。
「本当のあなたは‥‥もっと穏やかで‥‥」
そして、もっと脆い人。
それを隠して、何でもない顔で笑っている。
なんて不器用で、悲しい人だと思った。
そう思ったら、我慢できなかった。
「‥‥もっと、自由に生きて欲しい。」
だから、と彼は言った。
私と一緒になろうと。
「‥‥」
は真っ直ぐに彼を見つめ返した。
「もう何も我慢しなくていいんです。」
彼は言ってくれた。
自分の感情を押し殺して生きる事はない。
「自分を犠牲にする必要はない。」
必死に教えてくれた。
彼女は彼女の人生を生きる権利がある。
「私なら‥‥」
「山口さん。」
私なら、あなたを自由にしてあげられる――
武人ではない自分ならば、きっと‥‥
紡がれるはずの言葉を、は遮った。
山口は琥珀の瞳を見て、息を飲んだ。
その瞳には、やはり、迷いなど微塵もなかった。
「‥‥私は、戦います。」
あの人と共に戦う。
戦って‥‥死ぬ。
それが、自分の答えだと。
「っ‥‥」
ぐしゃりと男の顔が泣き顔に歪む。
唇を噛みしめ、苦しげに何かを堪えるように、眉根が寄せられる。
「ごめんなさい‥‥」
は謝った。
彼がの事を想って言ってくれるのは分かった。
でも‥‥行けない。
彼とは、行く事が出来ない。
ぐ、と噛みしめたまま俯く。
何故と男は思った。
何故、彼女はそうまでして死に急ぐというのか。
「女性の幸せは‥‥好きな人と添い遂げる事ではないのですか?」
それが、女性の幸せではなかっただろうか?
好きな男と一緒になり、家庭を作って、穏やかに暮らすのが、幸せじゃなかっただろうか?
決して、戦いに身を投じ‥‥命を投げ捨てることじゃないはずだ。
なのに何故。
どうして自分を殺して、犠牲にしてまで苦しい道を歩むというのだろう。
「‥‥」
はそっと視線を伏せた。
きっと彼には理解して貰えないだろうと思った。
「戦いに身を投じるのが、あなたの望みなのですか?」
山口は悲しそうに問いかけた。
はそうじゃないと首を振った。
人を殺めるのが好きなわけじゃない。
戦うだけが生き甲斐じゃない。
そんな事じゃなくて、ただ、自分は、
「あの人の傍にいるのが‥‥私の望みです――」
解放されなくとも、彼の傍にいられるならばそれがの幸せなのだ。
その言葉で男は思い知らされた。
自分には無理だ――と。
自分には、を自由にする事など‥‥出来はしない。
彼女の目に映っているのは、
唯一、その人だけなのだと、分かった。
――女性の幸せは‥‥好きな人と添い遂げる事ではないのですか?
言葉がぐるぐると回っていた。
彼女の幸せは‥‥好きな人と添い遂げることではないのかと。
ぐるぐると、まるで苛むように回っていた。
そうして気がついたら身体が勝手に動いていた。
じゃり、という足音が背後で聞こえた。
誰かが来たのだと気付いては振り返り、
「‥‥あ‥‥」
目を丸くする。
まさかここにいるとは思わないその人が立っていたから。
「‥‥土方さん。」
呼びかけられ、土方はその時になって自分が彼女の前にやってきたのだと気付いた。
はっと我に返ると、思わず、難しい顔で一瞬視線を落とした。
「‥‥」
その反応では知った。
彼が今、ここに来たのではないのだと。
少し前からここにいて‥‥先ほどの話を聞いていたのだと。
「‥‥」
眉間に皺を寄せ、難しい顔でこちらを見つめる彼に、は苦笑で首を振った。
彼が何を思ったのかは分からない。
「私は土方さんと一緒に行きますから。」
ただ、何かを言われる前に先手を打つ。
「だが‥‥」
「いいんです。」
迷いのあるような土方の声に、はきっぱりと言って、彼の横を通り過ぎた。
「私は戦います。」
「‥‥」
――女性の幸せは‥‥好きな人と添い遂げる事ではないのですか?
悲痛な響きが、耳に残っている。
彼に言われるまで気付かなかった。
には、そんな生き方があったのだと。
好いた男と一緒になって、幸せになるという道があるのだと。
「。」
通り過ぎようとしたその肩を掴む。
掴んだ瞬間‥‥その細さに驚いた。
知っていた癖に、その細さに驚いた。
そう、だ。
琥珀がしっかりとこちらを見上げた。
「私はあなたと一緒に行く。」
彼女はもう一度きっぱりと言った。
迷いを微塵も見せずに、彼女は言い放った。
「あなたとどこまでも行く。」
強く揺るがない眼差しを持っているその人は、
苦しい戦いの中共に駆け抜けたその人は、
いつも、
傍で、
笑ってくれていたその人は‥‥
は、
――女――だ。
分かっていた。
女らしくないなんて口にしながら誰よりから『女』を感じていたのは土方だ。
不器用で、
優しくて、
甘くて、
可愛い、
『女』
そんなの分かっていた。
誰に言われなくても分かっていた。
小さくて、
細くて、
柔らかくて、
脆い、
『女』
誰よりも長い時間を共に過ごしたのだ。
誰よりも近い場所で、見ていたのだ。
触れていたのだ。
揺るがない強さも、
儚げにさえ感じる弱さも。
女としての――甘さも――
彼は見てきた。
ただ、見ない振りをしたのだ。
気付かない振りをした。
だって、気付いてしまえば‥‥
この気持ちも認めなくてはいけなくなる。
仲間とは違う、部下とも、家族とも違う、
彼女に抱いている感情を、認めなくてはいけなくなる。
暖かくて優しくて、
時々苦しくなる、この感情を。
自分はに、
――特別な感情を抱いているのだと――
他の男に触れられれば激しい憎悪が胸の奥に生まれるほど、
彼女の柔肌に触れればどうしようもない衝動が身体を突き動かすほど、
彼女に、熱く、激しい想いを寄せているのだと。
自分が、彼女を、
一人の女として――好きだということを――
だけど、
「‥‥っ」
それを男は認めたくなかった。
真っ直ぐに見つめる琥珀から逃れるように視線を背けた。
この感情を認めれば、
彼女が好きなのだと認めれば、
――怖くなった。

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