12
なんだかふわふわする。
まるで自分がしかと立っていないような、安定しない浮遊感。
なんだろう、これは。
「ん‥‥?」
はゆっくりと重たい瞼を上げた。
ぼや、と世界が一瞬原型を留めないほどに歪む。
それを一度閉ざしてもう一度開くと、少しだけ視界が鮮明になった。
ただ、まだ天井の木目までは見えない。
「気がついたか?」
横合いから声が掛かった。
「‥‥土方さん?」
動きの悪い首をゆっくりと巡らせれば、傍らに腰を下ろす彼の姿があった。
そして彼の横に山口の姿もある。
二人は揃ってほっとした表情を浮かべてみせた。
「熱があります‥‥横になっていた方が良いでしょう。」
起きあがろうとしたを山口が制する。
熱‥‥
ああそうか、だから。
「身体が怠いんだ‥‥」
身体がひどく怠かった。
まるで自分の身体とは思えないほど重たくて、動かすのが億劫だった。
節々も痛むし、頭も痛む。
目の奥も熱くて‥‥開けているのが辛かった。
「粥くらいは、食べれそうですか?」
山口が額に当てた手拭いを取り、頬にまで流れる汗を拭ってくれる。
それを水桶で洗って、また額に置いてくれた。
ひんやりした冷たさが気持ちいい。
「食べます。」
食べれます‥‥じゃないあたりが彼女らしい。
無理矢理でも食べて体力を回復させなければ迷惑が掛かると思っているのだろう。
返答に山口は苦笑した後、それじゃあ、何か用意をと立ち上がった。
その時、
「この、馬鹿野郎が!!」
怒声が飛んできた。
驚いて山口が振り返れば土方が険しい表情でを見ている。
彼女を叱ったのだと分かったのは、彼が次の言葉を紡いでからだった。
「そんな状態で、一人で敵地に乗り込もうとする馬鹿がどこにいる!」
流石に怒鳴られ慣れていたも、彼の剣幕に驚いたように目を見開いていた。
「てめえの身体もまともに支えられない病人が、人の心配なんかしてるんじゃねえ!」
この馬鹿とまた怒鳴る。
遠慮のない怒声はびりびりと空気を、そしての脳髄を強く叩いた。
「ひ、土方さん‥‥何も病人相手に怒鳴らなくても‥‥」
我に返った山口が止めに入るが、彼は耳を貸さない。
横やりを入れられた事でますます土方は不機嫌な顔になるばかりだ。
「今回は無事だったから良かったものの、もし万が一‥‥あそこで斬られていたらどうするんだ‥‥」
彼の言うとおりである。
今回は運が良かっただけだ。
もしこの相手が新政府軍だったならばは確実に殺されていた。
そして、
助けに来た土方も巻き込んだに違いない。
「‥‥」
は申し訳なくて視線を伏せた。
多分、焦っていた。
焦って‥‥行動に移した。
もう少し考えれば、は一人でどうにか出来たはずだ。
彼の手を煩わせる事もなく。
「‥‥ごめんなさい。」
は視線を伏せたまま、謝罪した。
まともに彼を見て謝ることは出来なかった。
土方はまだ何か言いたげではあったが、それ以上は何も言わず、腕を組んで黙り込んでしまう。
間にいる山口はその気まずい空気にしばしどうしたものかと二人を見比べていたが、
「それじゃ、私はお粥を作ってきますね。」
と言って立ち上がった。
とりあえず、そっとしておいた方がいいと判断したらしい。
しかし、部屋を出る前に、
「土方さん。
病人なんですから、あまり強く言わないであげてくださいね。」
と釘を刺すのは忘れずに。
不機嫌な土方にそんな事を言ってのけられる彼は、本当に大物だ‥‥とは思った。
ぱた、と襖が閉まって足音が遠ざかる。
完全に音が聞こえなくなった所で、ふ、と溜息が聞こえた。
そして、
「あ‥‥」
頬に冷たい何かが触れた。
土方の手だった。
冷たい‥‥と感じるのはに熱があるからだろう。
ひんやりとして気持ちが良かった。
「つらいか?」
先ほどまで怒鳴っていたとは思えないほど優しい声で聞いてくる。
彼が何故、怒ったのか、にはよく分かっている。
心配をしてくれたのだ。
とても心配してくれたのだ。
だからつい、口調も厳しくなったのだろう。
そんな彼の優しさを感じ、胸が熱くなった。
「平気。」
はふるりと首を振った。
「嘘を吐くな。」
が、僅かに顔を顰めて言われ、は苦笑を漏らす。
「ちょっと‥‥頭が痛い。」
「熱が上がってるから、な。」
「‥‥すいません。」
おかしいとは思っていたが正直風邪を拗らせているとは思わなかった。
大丈夫と言い聞かせ続けたせいで、感覚が鈍っていたのかも知れない。
自分がどんな状況になっているか分からなかった。
「いや‥‥」
土方は首を振った。
「そいつは元を正すと俺のせいだ。」
彼は顔を苦しげに歪めて、悪いと謝罪した。
「おまえに無理をさせたのは、俺だ‥‥」
どこか、彼女に頼りすぎた所があったのだ。
今、彼の周りで仕事を任せられる人間、というのは多くない。
信頼という問題でも、能力的な問題でも、ほど適任な人間がいないのだ。
それに、
多分甘えてしまったのだろう。
彼女が「平気」と言うから。
「大丈夫」だと笑うから。
それ故に甘えて、同時に彼女に対して‥‥少し鈍感になっていた。
彼女の嘘が見抜けないほど、鈍感になっていた。
「‥‥これからはもう少し考える。」
「それって、私の仕事を減らすって事じゃないですよね?」
続けた言葉にが即座に噛みついた。
病人だというのになんという強い眼差しで見るのだろう。
研ぎ澄まされた刃のようなそれが、まるで心の奥まで見透かすような真っ直ぐな瞳を向けている。
「私の仕事を減らして土方さんが‥‥っていうなら、私、怒りますよ。」
何のために自分がいるのか、それが分かっているのかと彼女は言った。
分かっている。
土方の負担を減らす為には、いる。
でも、
その負担を取り除くためにが犠牲になる必要はない。
倒れるまで仕事を続ける事も、彼のために仲間を斬る必要も、ない。
彼女だけが苦しむ必要はない、はずなのに。
「‥‥」
土方は溜息を吐いた。
深い、深い溜息だった。
何か言いたかったけれど‥‥きっと平行線だと分かった。
は頑固な女だ。
一度こうと決めたらてこでも動かない。
それが分かっていた。
溜息を吐き、すまないという言葉の代わりに、そっと、労るようにその頬を撫でる。
優しいそれには気持ちよさそうに目を細め、それからすぐに目を開けた。
「土方さん‥‥」
「なんだ?」
見上げる瞳に、僅かに影が差した。
「‥‥平助と、山南さんは‥‥?」
男の手が止まる。
彼らは‥‥どうなっただろう?
残酷だと思ったが、知りたくて言葉にした。
すると土方は、瞳を伏せて、
「墓を‥‥作った。」
と教えてくれた。
ひっそりとした丘の上に、墓を作ったと。
戦禍に巻き込まれないように遠く。
そして、緑深い場所に。
「‥‥骨も、髪も残らなかったからな‥‥」
彼らを成すものは何も残らなかった。
だから、土の下には刀を埋めたと言った。
「刀は、武士の魂‥‥ですもんね。」
の言葉に、土方はそっと目を細めた。
刀は武士の魂。
ぼろぼろになった彼らの刀を思い出して、彼は嗚呼そうだと頷いた。
あんな姿になってまで、真っ直ぐに、一生懸命生きた彼らそのままだと。
そして彼らの刀は、
最期の最期まで‥‥曇ることはなかった。
美しく輝いていた。
輝いて‥‥散った。
土方は細い息を溜息を零すみたいに零した。
「見晴らしのいい一等地だ‥‥喜んでくれるだろ。」
悲しみを振り払うように彼は明るく言う。
そうですねとも頷く。
「きっと、平助なんて高いところで喜んでますよ。」
すげー、たけー、きれーとか、まるで子供みたいにはしゃぐに決まってると言えば、彼は苦笑した。
「おいおい、んな事言ったらあいつ怒るぞ?」
「かもしれませんね。」
はくすくすと笑った。
くらん、
と笑った瞬間、頭まで鈍い痛みが走り視界が回る。
「‥‥もう寝ろ。」
それに気付いた土方が声を潜めて、彼女の目元に手を当てる。
無理矢理目を閉ざすそれに彼女ははぁいと不服そうに返事をした。
「少し、寝ます。」
「‥‥ああ‥‥」
そう言うと、彼は重たい腰を上げた。
「起きあがるんじゃねえぞ。」
ゆっくりしていろと釘を刺され、は布団の中でくすくすと笑った。
それはいつもと逆だったから。
「‥‥ゆっくり休め‥‥」
静かに、襖が閉まった。
「‥‥」
そうっと、瞳を開く。
ぼやけた視界には薄暗い世界が見えた。
頭が痛い。
頭が、熱い。
ぼんやりと、思考が麻痺していく。
『、土方さんの事、よろしくな』
ふいに、そう言って笑う、藤堂の声が聞こえた気がした。
都合のいい、幻の声。
幻聴だと分かっていても、つい、笑みが漏れてしまった。
「なに‥‥人に押しつけてんのさ‥‥」
熱のせいなのか、世界が曖昧になっていく。
夢か、現か‥‥分からない。
『土方君は無理をするから‥‥君がしっかりと見ていてくださいね。』
穏やかな山南の声まで聞こえた。
「二人とも、狡いなぁ」
私に任せてばっかり?とが笑うと、それにつられて二人も笑った気がした。
笑って、すまなさそうな顔で、
『おまえにしか‥‥』
『頼めない』
そう、言った。
うん、分かってる。
彼らの想いを受け止める人間はいない。
自分以外に、彼らの想いを受け継いで‥‥土方を‥‥支える人は、いないのだ。
分かってる。
は心の中で確かに応えた。
――私が‥‥あの人を支える――
最後の一人になっても、あの人の傍で。
何があっても、最後まで支える。
だから、
もう、
「安心して‥‥眠って――」
熱い何かがこぼれ落ちるのを、は遠のく意識の中で感じた。
す、と襖が開いた。
その人は布団の中で小さく丸くなっている。
「‥‥さん?」
山口は声を掛けるが、彼女は眠っているらしい。
彼は持っていた粥をどうしたものかと考えるが、とりあえず、水と薬だけでも枕元に置いておくべきかと思い、足を
踏み入れた。
足音を立てないように枕元に膝を着き、水差しと薬を置く。
ふと額に当ててあった手拭いが落ちている事に気付いて、それを拾い上げるために身を乗り出した。
「‥‥あ‥‥」
その時、見てしまった。
頬に残る、濡れた跡。
それは、涙の跡――
布団の中で小さく丸まって‥‥誰にも気付かれないように隠れて泣く姿に、男はなんとなく気付いた。
彼女は、
――泣く事も許されないのだと。
誰にも見られないように。
誰にも知られないように。
一人で、夢の中でだけ泣く事を許される。
そんな世界に彼女はいる。
それを知って、
男は‥‥決意した。
寝顔は、常の彼女とは思えぬほど‥‥幼く、どこか脆く見えた。

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