「ひ、ひじ、かたさん!」
「土方さんじゃなくて、名前で呼べって言ってんだろうが」

勇気を振り絞って仕事に出掛けるその背中に声を掛けたら、不機嫌な顔と共にそう言われて、一瞬勇気が萎える。
そのまま一気に言い切ってしまいたかったのに出鼻を挫かれた感じがして、私はうと小さく呻いて怖じ気づくけれど、今日、この時を逃してしまうと恐らく一生言えないだろう事が分かっていたから、
「と、歳三さん!」
言い直して、もう一度折れかけた心を奮い立たせる。
名前で呼べば彼は満足げに笑って「なんだ?」と応えてくれて、その笑顔にちょっとどきりとしながら、私は勢いを殺さないようにそのまま一気に怒鳴りつけるみたいに言い放った。

「い、行ってきますの、く、く、口付けをしてください!!」



『行ってきますの接吻』
というのを、耳にしたのはつい最近の事。
普段はそういう夫婦関係を一切明かさない夫婦になって二年目のおまささんが、ある日、嬉しそうにそう言ったのを私は聞いた。
慎ましやかな妻君で有名‥‥なんだけど、それを聞いたときに他の女性陣が軽く冷ややかな眼差しを向けていた中、私だけは羨ましいと思ったものだ。
だって、なんか微笑ましくない?
行ってきます、行ってらっしゃいの言葉だけじゃなく、こう、軽く唇を合わせてからお仕事に出掛ける夫を送り出すのって。
まあ、奥ゆかしきを重んじる女性にははしたない事かもしれないけど、好きな人ならばいつだって触れていたいと思うわけで‥‥私はただただ羨ましくて素敵だなと思った。
私だって、その、大好きな旦那様をそうやって仕事に送り出せたらいいなぁ‥‥って。
だからね。
だから、
私は意を決してそんな事を言ってみたわけだ。決するのにゆうに十日掛かったけどさ。
しかも、つっかえた。

だからなのか、分からないけど、伝えたかった本人は私を見たまま、無言で、目を見開いている。
「‥‥」
突然私が変な事を言ったもんだから驚いているんだと思う。
や、分かるよ。
驚くのは分かるけど、そう、硬直されると私は居たたまれなくなる。
そんな固まるような事を言ったのか‥‥とさ。
なけなしの勇気を出したわけだし。こんな事になけなしの勇気ってのもどうかと思うけど。

「‥‥刹那、おまえ、いま」
「ま、待ってっ! 今のやっぱり冗談!!」
それから土方さんが言葉を発したのはゆうにお互いに深呼吸を何度も出来るくらいで、土方さんの声が少し上擦って聞こえるのはきっと彼も動揺してる‥‥や、照れてる証拠なんだろうけど、私はそれ以上に恥ずかしくて堪らないわけで、
「無かった事に、と言う事で、い、いってらっしゃい!」
「てめ、自分で振っておいて勝手に自己完結してんじゃねえよ!」
やっぱり言うんじゃなかったと反省しつつ、押し切るように彼の身体を玄関から押し出そうとすれば土方さんのもっともな文句が飛んでくる。
分かってるけどもう顔も見れない。
私は今日一日猛省するので、見逃してくれ。
「今顔見られたら私、恥ずかしくて死ぬから!」
だから、もう何も言わずに行ってくれと勝手な事を言うと、上から小さくぼそっとこんな言葉が降ってくる。

「そんなのこっちだって、恥ずかしいに決まってんだろうが」

声が、
本当に恥ずかしそうなそれで、
私は「え?」と思わず顔を上げてしまって、ものすごく後悔した。
いや、確かに土方さんが照れる、なんて貴重な所は見られたんだけど、彼はやられっぱなしで引き下がるような人ではない。
恥ずかしい所を見られれば当然‥‥私にも見せろと強要してくる。
「う、わぁっ!?」
強い力に両手を取られて、ぐるりと視界が回った。
気がつくと背中に壁、前に土方さんというどうにも逃げられない状況に陥っていて、私はオロオロと視線を左右へと彷徨わせた。それも、覗き込まれてすぐに、捕らえられる。
そうして、

「ん」

意味不明な短い、呻きなのかなんなのか分からない言葉を吐きながら顎を軽く上げる。

「なに?」
分からないと反応すれば彼は瞳を細めた。睨み付けるみたいに。
「行ってきますの‥‥口付け、するんだろ?」
「そ、れはっ!」
わざわざ恥ずかしい言葉を蒸し返されて、私は俯く。
俯くけどすぐに追いかけられて、私は顔をくしゃっと歪めた。
「い、言った、けど」
もう良いですと小さく語尾が消えていく言葉に重なって、土方さんはもう一度「ん」と顎を軽く上げる。
それはつまり、
口付けをせがんでいるんだろう。
私は、してくれと言ったのであって、するとは言ってないんだけど‥‥な。
いやもうそれよりも忘れて欲しいんだけど。
でも、
「‥‥なんだよ、俺とはしたくねえのかよ」
なんて、拗ねたような顔で、声で、言われちゃったら堪らなく愛おしくなって、

きゅ、と唇を一度引き結ぶと私は顔を軽く傾けて近づけた。
してくれ、って言う癖に土方さんも同じように近づけてきて、丁度、二人の真ん中で、唇が重なった。
「いってらっしゃい」
柔らかい唇にただ、押し当てるだけで離れればすぐ近くの瞳が不満げに細められる。
「もう一度」
「‥‥もう」
駄々っ子みたいなお強請りに、私はもう一度、唇を重ねた。
今度は触れるだけじゃなく緩く、感触を楽しむみたいにお互いに食んで、軽く音を立てて離れる。
「もう一度」
やっぱり言うと思ったその言葉を、土方さんは嬉しそうに笑って言うから私はもう一度、重ねた。


気がつくと呼吸さえも奪いあう口付けに発展して、遅刻をした土方さんに、
「熱々だねえ」
なんて何故か心底嬉しそうに大鳥さんは囃し立てたらしい。


遅刻の原因は…


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僕の可愛い奥さんが、最近少し変なのに気付いていた。
毎朝、いつものように僕を送り出そうとしながら、いつもと違ってそわそわしているのに。
きっと彼女はいつも通りに接しているつもりなんだと思う。
でもね、僕には分かる。
いつもより声が固いし、口元は引きつってるし、視線もちょっとしか合わせない。

「ねえ、何かあった?」

それが何日か続いたある日。
いざ、出ようという所で、僕は振り返って訊ねる。
そうすれば刹那はぎくんっと分かりやすいくらいに細い、簡単に折っちゃえそうな肩を震わせて、琥珀をまん丸く開いて僕を見上げた。

その理由を‥‥実は僕は知っていた。


『行ってきますの接吻』
そんな話を、刹那が誰かと話していたのを聞いた。
話をしていたのが女の人だったから相手が誰かっていうのは別に僕にとってはどうでも良い事だし、別に聞いたところで「ふぅん」と思っただけなんだけど、その話を聞いて、刹那が、
『いいなぁ』
と無意識に呟いたのを、僕は聞き逃さなかった。
心底羨ましそうにいいなぁって呟いたんだ。
そして、その翌日から、刹那は朝僕を送り出す度にそわそわしていた。
すぐに『それ』だとピンと来た。
だって刹那は僕の唇ばっかりを見ているんだからね。
その度に僕は、ちょっとやらしいなぁ、なんて思ったけど言えばきっと彼女は怒り出すから言わない。僕だけの楽しみにさせてもらった。
でも、見て楽しむのもちょっと物足りなくなって、僕は五日目の朝にそう口にしてみる。
そうすれば、刹那は驚いたって顔で硬直してしまって、
「あ、いや、な、にもないよ?」
分かりやすいくらいに動揺した風に途切れ途切れの言葉を紡ぐ。
これで昔は色町に潜り込んで浪士を誑し込んでいたって言うんだから、笑える。
まあ、刹那は僕と一緒になってから‥‥ううん、僕の前でだけは、僕に関する事だけは、嘘を吐くのが下手になった。きっと僕の前ではありのままの自分でいたいと願ってくれているからなんだろう。それが、酷く愛おしい。
「そういえば、さ」
僕は、そんな刹那に少し意地悪になったかもしれない。
「この間、佐助って人が言ってたんだけど‥‥そこのお嫁さん、いつも自分が出掛けるときに口付けをしてくれるんだって」
「っ!?」
ぎくんっともうその場に飛び上がるくらいに肩を跳ね上げさせた刹那は、そんな事を言いだした僕を、目を落としてしまいそうなほど大きく見開いた。
なんで、それを? って聞くみたいで、僕は素知らぬ振りで笑みを深くした。
「そういうのって、羨ましいよね?」
「え、あ、うっ」
羨ましいよねと言いながら一歩を詰める。
勿論刹那は逃げないけど、上体は少しだけ後ろに反った。
それを僕は手を伸ばして遮って、引き寄せると二人の距離は一気に縮む。
「そ、っじっ」
僕と刹那は背丈に差がある。だから僕が少し屈んであげるか、それか刹那が背伸びをしてくれないと、二人の高さは同じにならない。
震える唇が、僕の唇に届く事もない。
だけど、僕は屈んであげない。
見上げる琥珀を見下ろして、にこりと笑って口の端を引き上げた。
「僕も、可愛い奥さんにそうやって送り出してほしいなぁ」
「っ!!」
刹那は一瞬硬直して、それから、僕の表情を見て漸く気付いたらしい。
驚きに見開かれていた瞳は徐々に険しいそれに変わっていって、唇からは低く不機嫌な声が零れる。
「おまえ、おまささんとの会話聞いてたな」
「何の事?」
惚けてみせるけど、きっと刹那には気付かれている。
別に隠すつもりもないから、これ以上嘘は吐かないけど、肯定もしない。
だってそんな事よりもずっとずっと大事な事が他にあるから。
「‥‥してくれないの?」
腕の中に抱きしめたまま、僕は自分の奥さんに訊ねてみる。
そうすると、彼女は唇を尖らせて「この嘘吐き」なんて僕を詰るけど‥‥駄目だよ、そんな顔しても可愛いだけだから。
「そっ‥‥」
愛おしくて、ぐいと背中に回した手に力を入れると刹那が狼狽えた。
引き寄せられて踵が地面から離れる。不安定さに慌てて僕の着物を握りしめるその手に、もっと縋ればいいと心の中で呟きながらきらきらと輝く琥珀をじっと見つめて、僕はもう一度、訊ねた。
「して、くれないの?」
「‥‥」
刹那は、僕と一緒になってから、ううん、一緒になる前から‥‥僕には甘かった。
あの時は僕にだけ甘いなんて事はなかったけど、今は僕にだけ、甘い。
僕が我が儘を言ってもちょっと怒るけど許してくれるし、僕が欲しいと言えば何でも与えてくれた。欲しい物なんて‥‥彼女以外に何もないけどね。

だから、

「‥‥いってらっしゃい」
彼女は恥ずかしそうに呟いて、そっと爪先立つ。
きゅっと引き寄せるみたいに着物を掴む手に力が込められて、僕は自然と彼女が苦しくないように顔を寄せてあげた。
目を瞑るのが惜しくて、近付く彼女の綺麗な顔をじっと見つめながら、柔らかい唇の感触に酔いしれる。
どんなお酒よりもずっと、僕を楽しませて酔わせてくれるのは、彼女だ。
「‥‥」
口付けは、閨の時よりもずっと早く、軽く、離れてしまう。
でも、震えた睫の下から現れる瞳が閨で見るそれよりもずっと恥ずかしそうで、甘くて、それから、
それから、

「いってらっしゃい」

幸せそうで。

僕はすごく嬉しくなって、ぎゅっと刹那を抱きしめた。

「今日、行きたくないあ」
「え!? 何言って‥‥」
「このままずっとこうしてたい」
「馬鹿! 仕事だろ仕事っ!!」
「仕事よりも刹那の方が大事だし‥‥あ、そうだ。このまま昨夜の続きでもしよっか?」
「は、はぁ!? 何言って‥‥って、こら、何引き返して‥‥」
「今日は刹那の好きなようにしてあげるよ」
「し――仕事に行きなさい!!」


幸福惚け


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「平助」
「んー?」
「見送りの時にさ」
「見送りの時に?」
「行ってらっしゃいの接吻するのってどう思う?」

どしゃ、と私の言葉に平助が玄関先で転けた。
そりゃもう豪快に。大の字になって。
「‥‥平助ぇ、今から出掛けるのに汚れない?」
妙に冷静に突っ込むと、平助はがばっと起きあがって私を振り返って、叫んだ。
「お、おま、おま、おまえが変な事言うからだろっ!!」
因みに顔は真っ赤だ。
鼻の頭とかに土着けてるけど、真っ赤だ。
照れてやんの、可愛い。
「なーんだよー、照れる事ないじゃん」
思わずからかいたくなってそう告げれば、平助はぶんぶんと慌てて頭を振った。
「て、照れてねえよ!」
や、どっからどう見ても照れてんだろ。
それ照れ隠し以外の何ものでもないだろ。
「口付けくらいでそんな恥ずかしがらなくても」
「く、口付けくらい、ってなんだよ! くらいって!!」
「昨夜はもっとやらしー事したのに」
「刹那っ!!」
そう言う事を、だな! と指を差して平助は狼狽えまくる。
本当に、昨夜の男らしい彼とは大違いで‥‥それが平助の魅力なのかもしれない。
こういう可愛いところがあるけれど、でもやっぱり本質は男の人、なんだね。
そしてその違いに、私はいつだって嬉しくなったりどきどきしたりするんだ。
私はくすくすと笑いながら、平助の着物の土埃を払った。
「ごめんごめん。ちょっと悪ふざけが過ぎた」
「っ〜〜」
まるで子供でもあやすみたいな口振りになってしまって、平助はそれにむすっとした顔になる。
距離を感じない目線で、もう一度「ごめん」と笑いかければその怒りはすぐに解いてくれて、ただ、顔を合わせるのは辛いらしくて視線を逸らしたままで「おう」と返事があった。

私が突然『行ってきますの接吻』云々と言ったのは、つい先日そういう事をしてお見送りをしていると、とある人から聞いたからだ。
その人は恥ずかしそうに、でもとっても嬉しそうで幸せそうな顔をしていたから、つい、私もしてみたいと思ったんだ。
だから、ちょっと聞いてみただけ。

「今日の戻りはいつもどおり?」
「ああ、うん」
いつも通りに声を掛けて送り出そうとすれば、平助の表情に笑みも戻ってくる。
「気を付けて行ってきてね」
「分かってるって。おまえも、気を付けろよ?」
家にいるんだから危険なんて無いと思うんだけど、平助はいつも私を気遣ってそう言ってくれた。
だから、私はうんと応えて、笑って彼を送り出す。
平助は用意したお弁当を手に、戸を潜り、
「あ」
と小さく声を上げる。
なんだろうかと首を捻ると、振り返った平助はこう言った。

「わすれもの」

そんな平助の言葉は、「え?」と小さく声を上げた私の唇に吸い込まれて、消えていった。



いってきます、いってらっしゃい。
短い言葉を掛け合って、かららと引き戸を閉める。
その戸が完全に閉められ、平助の姿が見えなくなって外界と完全に遮断された瞬間、
「っ〜〜〜!!」
私はその場に蹲って顔を両手で覆った。
やばい、今の私はすごくすごくすごーく赤い顔をしているに違いない。
きっと茹で蛸みたいに真っ赤だ。
「あー、くそーっ」
やられた。
あんな、さりげなく、口付けていくなんて、狡い!!
狡い! 平助の癖にっ!!
「‥‥くっそぉ‥‥」
と、悔しげに呟いてみても、私の心はとっても温かくて、幸せで‥‥
顔は赤いけれど、きっと口元は情けなく笑ってる。
だって、
嬉しいんだもん。
悔しいけど、私は今、とっても嬉しいんだもん。



「あー‥‥やべー」
それと同じくして戸板を隔てた向こう側。
私と同じようにしゃがみ込んで、真っ赤な顔で、今し方私に触れた唇を手でなぞりながら「やべー」と小さく彼は目を細めて呟いていたらしい‥‥というのを知ったのは暫く後になってからの事だ。


一緒の気持ち


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「せ、刹那、その、だな」

行ってらっしゃいと見送ろうとする刹那に、今日こそはと俺は振り返って告げる。
だが、どうしたのかと俺を真っ直ぐに見つめる瞳があまりに邪気が無く、そんな瞳で見つめられると自分がどれほど邪な事を考えているのかと思い知らされ‥‥いや、決して邪な考えではない。
これは、純粋に、彼女という人を、あ、愛するが故に、だな。
「一、どしたの?」
小首を傾げるようにことんと首が傾げられ、どこか子供らしいその所作にどきりと鼓動が跳ねる。
それからどくどくとまるで疾走した後のように鼓動が高まり、収まらない。
俺の身体はどうにかなってしまったのではないだろうか?
「‥‥一?」
「な、なんでも、ない」
結局言えずに肩を落として、俺は背を向ける。
今日も、言えず終いだった。
ただ一言、告げればいいだけだったというのに。
その一言が、何故か俺の口からは出てこない。
決して無理な願いでも、疚しい願いでもないはずだというのに。

俺はただ、出掛ける前に彼女と唇を重ねたいだけだったというのに。



出先で、その光景を見たときには些か驚かされたものだった。
夫を妻が見送る所だったのだろう。
夫婦になってそう日も経たないのか、初々しさが残る彼らに微笑ましいものを感じるなどと思いつつなんとはなしに見ていると、玄関先で戸を開け放ったまま、出てきた妻が夫の唇を奪った。
一瞬、俺は見てはいけないものを見てしまった気がして慌てて目を逸らしたのだが、その後に聞こえる恥ずかしそうな、だが嬉しそうな声に惹きつけられるように視線を上げれば、夫婦は幸せそうな顔で笑い合っていた。
それを、俺は羨ましいと思ったのだろう。
無論、今の状況に不満などない。
刹那は前と変わらず俺への想いを抱き続けてくれているし、俺も、同じくそうだ。いや、以前よりもずっと想いは強くなったという方が正しいかもしれぬ。
だから、他者を羨む必要がないほどに、俺たちは幸せなのだ。
だが、
俺は羨ましいと思ってしまった。
出掛ける時はいつだって寂しそうな顔をする彼女に、あんな風に幸せそうな顔にさせてやりたいと。
‥‥もしかしたら、俺が、幸せな気持ちになりたかったのかも、しれぬ。

そう思って、今日まで十日。
俺は何度となく、彼女に切り出そうとしてみたのだが‥‥この有様だ。
今日も今日とて、不甲斐ない自分を呪いながら明日こそはと決意を新たに家を出る。
「はじめ」
踏みだした所で、名を呼ばれた。
なんだと振り返れば、一歩を踏みだした刹那にぐいと襟元を掴まれて引っ張られ、

唇に、俺の名を呼んだ刹那の、
柔らかい感触が触れた。

脳髄がとろけてしまいそうなほど、柔らかくて、甘い、唇が。

「いってらっしゃい」

刹那は言う。
近しいところで囁くように。
恥ずかしそうに目元を染めて、どことなく、意地の悪いそれで。

「いってらっしゃい、あ・な・た」

とん、と送り出すように俺の肩を叩く。
呆然とする俺を一方的に送り出し、くるりと背を向ければ飴色が揺れ、

「ま、待て!」
慌てて追いかけて肩を掴み、前に回り込んだ。
「も、もう一度、はじめから」
「もう一度って‥‥なんで?」
「い、今のは一瞬過ぎて分からなかった」
だからもう一度と言うと、刹那は瞠目し、やがて半眼で俺を睨む。
「分からなかった‥‥って、それ嘘だろ?」
「嘘などではない! 早すぎた!」
あの一瞬では分からなかった。
だから、もう一度、今度はゆっくりしてくれ、とこう言えば、刹那は「だーめ」と言ってそっぽ向いてしまう。
「行ってらっしゃいの口付けは一回だけなの」
「な、何故!?」
「だって、一が行ってきますって出掛けるのは一日一度だろ?」
「そう、だが」
「だから、今日はこれでおしまい」
ほら、と刹那は俺を促す。
「あんまりのんびりしてると遅刻するだろ? おまえはこんな事のために大事な仕事を放り投げていいのか?」
「‥‥う」
その尤もな言葉に、俺はそれ以上反論できるわけもなく、
「わ、わかった」
行ってくると、僅かに肩を落とし、歩き出す。
はぁ、と一つ溜息が背後から聞こえ、それが更に自分の不甲斐なさを痛感せざるを得ず、視線を落とせば、

「明日、またしてあげるってば」

少し照れたような声が俺の背中に飛んできた。




「嬉しいのは分かったから、とっとと行け!!」
思わずという風に立ち止まって振り返り、しばし幸せを噛みしめていると今度こそ刹那の怒りが落ちてきた。


いつだって彼女が上手


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「刹那」
「え? あれ、左之さん、いつの間に‥‥っ」
いつの間にか背後に立っていた夫に気付いたときには腕に囚われ、驚きの声を漏らした唇を彼の唇で塞がれていた。
だから、おかえりなさいという言葉は彼の口の中に。
「んっ、んんっ」
いってきますの時とは違って、滑り込んだ舌に私は戸惑うしかない。
挨拶とはほど遠く、甘く、深い口付けは私の膝がかくりと折れてしまうまで続いて、
「ふ、ぁっ」
「っと」
頽れる私を、左之さんはしっかりと逞しい腕で抱き留めてくれる。
ただ、力が入らなくなったせいで、好き放題されるのは目に見えていて、
「ちょ、ま、なんでっ」
軽く横抱きに抱え上げられて私は暴れた。
この流れはまずい。向かう先は絶対に寝所だ。
しかも、明日は左之さんも非番だから、更にまずい。
「っていうか、お鍋!!」
「心配すんな、火は落とした」
いつの間に!? と聞きたくなる早業で火を落とした竈を放置し、勿論私は料理も放置する事になり、左之さんにあっという間に寝床へと連行されてしまう事になる。
「だ、だめ! 駄目だってば!!」
まだ寝る用意もしていなかったから当然そこには布団もないわけで、畳の上で‥‥なんてのは翌日背中も痛いし、あちこち擦りむくしだから勘弁して欲しいんだけど、だからといって布団を引っ張り出されて敷かれてその上に押し倒されてもこのまま流されるわけにもいかない。
「ご、ご飯!!」
「んー? それは後で食う」
応える声はすっかりその気になって、低く、甘い。
その声を聞いてるだけでくらっときてしまいそうな自分を叱咤しながら、身を捩ればこれぞ好機とばかりに逸らした袷から夫の手が滑り込んでくる。
「だだ、だめっ!!」
その大きな手に翻弄される前に手を掴み、ふるふると頭を必死で横に振ると、左之さんはここで漸く私の訴えを聞き入れる気になったのか、手を止めて不満げに私を見つめてきた。
「なんだよ。いいだろ?」
「よ、く、な、い!」
いや、別に左之さんにされるのが悪いってわけじゃない。
そうじゃなく、時と場合を考えて、だな。
「ご飯を食べてからに‥‥」
「駄目だ」
私の訴えに左之さんは短く却下と告げて、肩口に手を滑らせて着物を脱がせようとした。
その力はちょっと強引で、彼らしくない。
いつも優しい左之さんが強引に‥‥っていうのは悪くないけど、でも折角作った料理を食べて貰えないのも哀しいもので。
「さの、さっ」
「大人しくしろ」
「や‥‥んんっ」
さっきよりも強引に、深く唇を吸われて私の力はあっという間に封じ込まれた。
強く痛いくらいに舌を吸い上げられ、噛まれて、頭がぼうっとして、気付けば袷は乱されて、帯も解かれて‥‥
「あ、だめ‥‥って‥‥」
力無く彼の手を掴めばその手を取られて口づけられて、指先を噛まれた。
それさえ感じてぞくりと背筋を震わせ、だけどやっぱり流されてはいけないと思うのか、睨み付ければ左之さんは溜息混じりにこう呟いた。
「おまえ、寂しそうな顔、してただろ?」
寂しそうな顔?
何の事かと首を捻れば、左之さんは指先をちゅっと音を立てて吸い上げて「朝」と続ける。
「俺が出るとき、寂しそうな顔‥‥しただろ?」
「そ、れは」
私には分からない。だって、鏡でも無ければ私の顔は私自身が見る事は出来ないのだから。
でもきっと、私は寂しそうな顔をしたに違いない。
いつだって、左之さんを見送るときは寂しいと思っているから。一人で留守番しているその時間を寂しいと思うから。早く戻ってきてくれればいいのにっていつだって思うから。
仕事があるのは分かっているけど‥‥やっぱり、寂しいのは寂しい。
だけど、それと彼の暴挙とどんな関係があるんだろう?
「あんまり寂しそうな顔してっからよ」
だから、と言って左之さんが私の弱い部分に触れる。
思わず悲鳴が上がって、彼の手を握りしめるとそのまま舌先で手の甲までを舐められた。
左之さんは艶っぽい眼差しを私に向けて、言い放った。

「だから、帰ったらたっぷり甘やかしてやんねえとなって」

思ったわけだ、というけれど、それは一方的であって、私が望んだ事ではない!!

そのはずなのに‥‥私は結局左之さんの腕の中でろくな抵抗も出来ずに流されてしまうんだろう。


『いってらっしゃい』は?