「刹那さんや‥‥」
「どうしたかね?総司さんよ‥‥」
まるで縁側でのんびりお茶を啜ってる仲睦まじきご老人夫婦のような呼び方をされ、刹那は思わずそれに乗ってしまう。
隣を歩いている沖田はいつものへらへらともにこにこともつかない笑みを浮かべている。
「僕たちさっきから同じ所を歩いている気がするんだけど。」
「ああ、私もそんな気がしてた。」
「奇遇だね。」
「流石、似たもの同士と言われただけあるな。」
答える刹那も笑顔のままだ。
足取りは先ほどとさして変わらない。
曲がりくねった、入り組んだ道を歩く。
歩き始めてどれくらい経っただろう。
本当ならばもう道を抜けてもいいはずだった。
大きな京の通りに出て、今頃、屯所に帰り着いているはずだった。
しかし、一向に見慣れた道に出ない。
これはそう、
「僕たち、迷ってる?」
決定的な一言に、刹那は「それは言わない約束だろ」とまるで病人の親を持つ苦労性の娘のような科白を口にした。
――彼らは迷っていた。
決して慣れない道に入ったせいではない。
加えて言えば、二人が壊滅的な方向音痴というわけでもない。
どちらかといえば二人とも獣じみた本能の持ち主で、その本能は正確だった。
しかし、
二人は未だに帰路につけずにいる。
勘が鈍ったかな?
刹那はさして困った風でもなく首を捻った。
もしここにいるのが千鶴ならば真っ青になって動揺している所だろう。
「どどどどどうしましょう!?」
とか泣きそうな顔で言うに違いない。
まあ、そんな動揺っぷりも、二人には、ない。
「困ったな」
と口にしても全く現実味がないというものだ。
「やっぱりさっきの道を曲がったのが悪かったかな?」
ちょっと変わった道が出来ていたので、つい好奇心というものが動いてしまい、そちらの道を選んだのが間違いだったらしい。
おかげで細い家々の間という迷路に迷い込んでしまった。
京の町並みが複雑だということを今更ながらに認識させられてしまった。
「なんか、ぶっ壊して行きたい。」
刹那にしては物騒な言葉を、しかし笑顔でさらりと零した。
「ああ、それはいいね。」
新選組のなかで最も凶悪な男は笑顔で同意を示す。
行く手を遮る板塀を壊して突っ切れば、簡単に目的地に着きそうだと彼は続けた。
それは有り難いが、でも、
「そんなことしたら土方さんに大目玉食らうぞ?」
「それは勘弁。」
「だよねー」
すたすたと二人はやはり歩みを止めずに進む。
ぐるぐると同じ方に曲がっていると知ると、今度は戻ってきた場所を別の方向へと歩き出した。
迷いは、ない。
「‥‥こんなだから、もっと危機感を持てとか言われるのかなぁ?」
刹那がぽつっと呟いた。
沖田が塀を破壊する云々かんぬんのまえに、きっと説教を食らう羽目になる。
新選組の幹部が京の町中で迷子になるなんて、間抜けにも程があるとかそんな事を言われて。
「毎日のように口を酸っぱくして言われてるんだよね。」
危機感を持て、とか、緊張感が足りない、とか。
「や、刹那の場合の危機感はそういう意味だけじゃないと思うけどね。」
しれっと沖田が口を挟んだ。
なに?と聞いてもはぐらかされるので刹那も流しておくことにする。
「別にぼーっとしてたわけじゃないんだけどな。」
「真面目に歩いて、迷ったんだけどね。」
ここに斎藤あたりがいたら「なお悪い」と厳しく突っ込まれたことだろう。
「でもさー、毎日土方さんみたいにむっずかしー顔してるのもねぇ。」
「うん、そうだよね。」
どうしてこの二人が集まると土方の話‥‥しかも悪口になるのだろう。
「まるで悪党だもんね。土方さん。」
「悪党よりも悪い顔してるよね。」
「あれで女の人に人気があるのが不思議。」
と言われて刹那はひょいと肩を竦めた。
「きっと女の人の前だと優しい顔してるんじゃない?」
歯の浮くような科白とか口にしてさ、と刹那が言うので、沖田はなるほどと手を叩いた。
「どんな顔して女の人口説いてるんだろうね?」
「さあ‥‥想像したくもないな。」
「ねえ、刹那、それってやきもち?」
「まっさかー。土方さんに口説かれたら恐ろしくて寝込んじゃうよ。」
「確かに。」
あはは、と二人揃って笑う。
抜けるような青だった空は、やがて、茜色へ。
それでもまだまだ二人の足は止まらない。
凄腕剣士にして、聡明なる、新選組副長助勤と一番組組長。
ただいま、猛烈に、迷子中。
たまにはのんびり散歩でも
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「あ、柿。」
秋の寂しげな夕日に照らされ、橙の実がことさら赤く映った。
葉のほとんどを落とした柿の木は、板塀からにょきっと一本だけを飛び出していた。
そこに、柿がなっている。
「秋だな」
「ですねぇ」
のんびりとした原田の言葉に、これまた刹那ものんびりと答える。
秋の冷たい風に吹かれ、僅かに柿の実が揺れていた。
まるで、誘っているみたいだなと原田は思った。
「‥‥刹那、柿食いたくねえか?」
唐突に柿を見上げたまま彼は問う。
察しのいい少女はそんな彼を見上げて、
「止めた方がいいですよ」
と苦笑を浮かべた。
子供だというのにこちらのほうが大人だ。
「見つかったら怒られますよ?」
と窘めるが、原田はにやっと笑ってみせ、
「それをどうにかするのも、柿をもぎ取る楽しみってもんだ」
そう答えた。
なるほど、
柿を食べる事だけじゃなく、柿泥棒を見つからずに遂行するというほどよい緊張感とやらも味わえるということか。
これは一石二鳥だ。
しかし、
「左之さんでも届きませんねぇ?」
長身の彼が手を伸ばしても、まだ遠い。
どこぞに台でもあるまいかと見渡せば、ふと、少女と目があった。
「刹那、おまえが代わりに取ってくれ。」
ひょいと小柄な身体を両手で抱き上げる。
ああ、なるほどその手があったか。
「了解」
刹那は答え、彼に抱え上げられるまま、高い枝へと手を伸ばす。
茜色に染まる実はここまでおいでとまるで誘うように揺れた。
もうちょっと、
刹那は身を乗り出し、
やがてその指先が実に、
「届いた」
刹那が嬉しそうな声を上げるのと同時、
ふと、
突き刺さるような視線を感じて、ゆっくりと視線をそちらへ向ける。
そこは板塀の向こう。
広々とした庭先に、枯れ葉を穿き集める男の姿。
きっと、その邸の人間だろう。
男は驚きに目をまん丸くしていた。
刹那も然り、だ。
二人はお互いに目を合わせたまま、しばし、固まる。
伸ばした手が僅かに動き、
ぶつん、
と音を立てて柿の実が彼女の手に落ちてくるまでは。
次の瞬間、
「柿泥棒っ!!」
男が箒を振り上げて一緒に声も上げた。
「やべ!」
原田は僅かに焦った様子で呟き、刹那を抱き上げたまま走り出した。
がくんっと思わず均衡を崩し掛けた少女は慌てて原田の肩にしがみつく。
「この悪ガキがぁ!!」
ばたんっと激しい音と共に飛び出してきた親父は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「左之さん!おじさんが出てきた!」
「分かってる!
しっかり捕まってろよ!」
原田は言うと、小さな背中を抱きしめ、全速力で通りを走る。
身体をしっかりと抱きしめる強い、大きな力を感じながら、刹那は親父の姿が遠ざかっていくのを見ていた。
そればかりか、景色もどんどんと変わり、刹那は頬に当たる早い風を受けながら、楽しげな声を上げた。
「左之さんすごいすごい!」
早い、楽しいーと嬉しそうに笑う少女に、
「あとで、土方さんに大目玉食らうかもなぁ」
原田はそんな事を楽しげに言いながら通りを走った。
あの日の夕日と笑い声
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「千鶴ちゃん、手を出して。」
にこやかな沖田の言葉に千鶴はびくりと、あからさまに肩を震わせ警戒の姿勢を取る。
その目は明らかに脅えの色を湛えており、数日前の事が無ければただ単に「可愛いなぁ」などと男の加虐心を煽っただろうが、今は罪悪感が募るばかりだ。
「大丈夫、蜥蜴じゃないから。」
沖田は安心させるように優しい声で言う。
そう言われても千鶴はまだおっかなびっくりといった様子だ。
因みに、監視のつもりなのだろうか、今回も刹那が傍に控えている。
そしてその横で藤堂が半眼で沖田を睨み付けているのだ。
もう同じ事何度もしないってば。
沖田は内心で呟き、そっと身を屈めて千鶴と目線を同じにする。
そうすると子供は安心する、と前に気付いたからだ。
「ごめんね、君が蜥蜴が嫌いだなんて知らなくて‥‥」
「‥‥い、いえ‥‥」
素直に謝られ、千鶴は困惑した表情を浮かべる。
「あの時のお詫び、じゃないんだけど、君に今度こそ喜んでもらえると思って‥‥さ。」
すごく可愛いんだよ、と沖田は言う。
「本当ですか?」
「うん、きっと君も気に入ってくれる。」
千鶴の表情から少しずつ恐れの色が消え、代わりに子供みたいに無邪気な表情が浮かんできた。
単純なんだから‥‥
と刹那は遠く離れた所で思う。
それで沖田を許してしまっては、彼の為にならないというのに‥‥
まあ、千鶴がそれでいいのならば何も言うまい。
ふ、と刹那は溜息を吐き、ゆっくりと沖田の手が開かれていくのを横目で見つめる。
「ほら、可愛いでしょ?」
大きな掌の中に。
茶色い毛並みの。
まん丸い、愛らしい目をした。
愛嬌のあるその生き物が収まっていた。
や、確かに、
確かに姿形を見れば可愛い。
可愛いのは同意する。
がしかし、
「っきゃぁあああああ!?」
千鶴の口から悲鳴が上がった。
その声に驚いたのか、掌からぴょんっと軽やかな身のこなしで飛び出していく小さな影を追いかけながら、刹那ははふ、と溜息を吐いた。
「ねずみはないだろうが‥‥」
泣きこそはしなかったが、その後また接近禁止令が出された沖田は暫く落ち込んでいたとか‥‥いないとか‥‥
不器用な愛情表現(再び失敗)
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「刹那、具合が悪いのであれば、休め。」
窘めるような斎藤の言葉に、彼女は何の事だと反論する。
「私は全然平気だってのよ。」
「真っ赤な顔で言われても説得力はないぞ。」
「熱いんだから仕方ないだろー」
やはり熱があるんじゃないか。
呆れたように溜息を吐きつつ、いいから休めと強引に彼女を寝かしつけようとすると、
「だぁめだって‥‥この書類を土方さんに渡さないと駄目なんだから。」
刹那はそう言って手を振りほどき、手に持ったそれをこちらに見せつける。
彼女がどれほど熱に冒されているか‥‥その時、よぉくわかった。
「刹那‥‥それは雑巾だ。」
書類と雑巾を間違える、など、相当悪いらしい。
「いいから休め。
俺が副長にお渡ししておく。」
とにもかくにもこのままの状態は危険と判断し、斎藤はもう一度刹那に休むように言った。
「いーやー」
彼女も頑固である。
「刹那」
「いやだったらいやだっつーの。」
頑固‥‥というよりは、あまりの高熱で何を言っているのか分からないようだ。
目が完璧に据わっている。
これ以上は危険である。
そう男は瞬時に判断すると、彼女の手を強く引っ張り、
「っ!?」
どさっと、布団の上に引きたおした。
くわん、と一瞬目の前が回る。
引きたおされた‥‥と分かったのは、それから数拍してからで。
それが分かった瞬間、刹那は「どけ」と不機嫌そうな声で押しのけようとした。
こうなったら無理矢理にでも寝かしつけるしかあるまい。
男はじたばたと藻掻く彼女を身体全体で押さえつけ、大人しくなるのを待った。
やがて‥‥
「‥‥疲れた‥‥」
深い溜息と共に、彼女の身体から力が抜ける。
「大人しく、寝てればいいんだろ‥‥」
くそ、と吐き捨てるような声に、斎藤はほっと安堵に胸をなで下ろす。
ああそうだ。
しばらくそうして大人しくしていてくれ。
男は苦笑を浮かべて、こちらを睨み付けるであろう女の顔を見て‥‥
「っ」
固まった。
自分の下で女はぐったりとしていた。
高熱故に、目を潤ませ、
頬を上気させ、
熱い吐息を漏らして、ぐったりとしていた。
女は風邪でやられていた。
しかし、その表情は‥‥どこか、色っぽく‥‥
まるで、情交の時に見せるような婀娜めいた表情で‥‥
「‥‥」
詰るようにこちらを見る瞳は、情事の際に自分を求めるかのような甘さを湛えていて‥‥
どく、
と血液が頭のてっぺんまで一気に昇るのが分かった。
そんな男の様子に気付いたのか、
女はにや、と口元を歪めて意地悪く笑った。
「こら、病人になにやらしー事しようとしてんだ?」
この助平と揶揄する言葉に、病人の彼女よりも男の顔は真っ赤になった。
病人には手加減を
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「千鶴ちゃん!」
危ない――という声が聞こえた時に振り返ったけれど、振り返った所で少女には何も出来なかった。
大柄の男が拳を振り下ろす瞬間を、ただ、ゆっくりと流れる時間を、見つめていることだけしか。
流れる緩やかな景色が、
青で覆われる事だけしか、
――出来なかった。
「刹那が怪我したぁ!?」
永倉は驚きのあまりに大きな声を上げ、それを慌てて、
「しーっ!しーっ!!」
藤堂が過敏に彼女の変化を察し、男の大きな口を塞いだ。
「新八っつぁん声がデカイ!!」
屯所中に響き渡る大声を上げることはないだろうと思うが、彼が驚くのも無理もないことだった。
新選組副長助勤‥‥刹那という女は、誰もが認める凄腕の剣士である。
沖田や斎藤とは違い、その刃には強さはないが、その分、相手の急所を確実に突く‥‥という素早さと、思い切りが彼女にはあった。
鬼の副長の懐刀、とまで言われる彼女は何よりも暗殺を得意とする。
疾走する風のような素早い身のこなしが暗殺という仕事にとても合っているのだろう。
勿論、面と向かって戦っても彼女は強かった。
何度か永倉達も手合わせをしたことがあるが‥‥刃を合わせた力の拮抗となれば勝てるものの、何をしても良い純粋な殺し合い‥‥となると彼女には敵わない。
いつも気がつくと懐に潜り込まれて切っ先を喉元に突きつけられていた。
藤堂などは勝負にさえならない。
散々からかわれて、遊ばれて、力尽きた頃に一本を取られるのだ。
それほど強い剣士である彼女は‥‥今までどんな不利な状況に陥っても、怪我をしてきたことがなかった。
昔、貧乏道場にいた頃は散々嫌がらせを甘んじて受けていた少女ではあったが、自分が怪我を負えばそれだけ皆を心配させると知ってからは傷を一つも作ってきたことがない。
その相手でどれほどに多くとも‥‥どれほどの強さを誇っていたとしても‥‥
刹那は呆気なく討ち取って、戻ってきた。
そんな彼女が、町中をうろついていた所、ばったり出会った浪士どもに怪我を負わされたのである。
そりゃ、驚く。
それほど凄腕の相手だったのだろうか。
それとも、彼女が熱でも出していたのだろうかと。
しかし、そのどちらでもない。
「‥‥新八っつぁん‥‥あそこ‥‥」
藤堂は気が進まないと言った顔でちらと、部屋の隅を見た。
隅っこで小さくなって全く気付かなかったが、そこに、彼女の姿があった。
「千鶴ちゃん?」
少女は隅っこですっかり落ち込んでいた。
千鶴は‥‥無傷である。
そう。
刹那が怪我を負ったのは‥‥
彼女を庇ったからであった。
私が屯所で大人しくしていれば‥‥
千鶴は今更後悔してもどうにもならない事を何度も何度も繰り返す。
彼女の代わりに殴られた刹那は目元を赤黒く腫らしていた。
おまけに殴れた時に目の上を切ったらしく、流血までしていて‥‥
そんな状態だというのに刹那はその後も一人で戦い敵を蹴散らしてしまった。
千鶴は呆気に取られて何も出来なかったというのに。
「ほんと、君って困った子だよね。」
落ち込む彼女の傍にいつのまにやってきたのだろう、沖田が立っていた。
彼は千鶴を見下ろし、やれやれと言った顔で溜息を吐く。
「そうやって落ち込んでたら何か変わるの?」
「‥‥」
いきなり痛いところを抉られた。
彼は言葉を飾り立てたりしない。
ありのままを言葉にするので、時にひどく‥‥傷つく。
でも、その通りだ。
千鶴が落ち込んでいても、何も変わらない。
そればかりか、刹那や、他の皆に気を遣わせるだけだ。
「総司、言い方があるだろ!」
藤堂が噛みつくけれど、千鶴はいいんですと首を振った。
「沖田さんの‥‥仰るとおりですから。」
無傷の自分が傷つく必要はないのに。
声が、落ちた。
沖田はまた深く沈み込む彼女を見て肩を竦めた。
「君が落ち込んだって無駄だと思うんだけどね‥‥」
「‥‥総司っ!」
「平助君、千鶴ちゃんを庇う必要はないよ。」
「なんだよ!その言い方!」
ああ最悪だ。
自分のせいで、沖田と藤堂の喧嘩にまで発展してしまいそうである。
「やめてください!
私が悪いのは分かってますから!」
慌てて仲裁に入る千鶴は、苦しそうな顔をしていた。
自分を、心底責める、顔。
だから、
「どうしてそんな顔すんのさ?」
沖田は訊ねた。
「‥‥」
千鶴は唇を噛みしめた。
いつも通りの顔をしようとするのに‥‥無理だった。
彼女が落ち込む必要はないのに、
――だって、
「私が好きでやった事だからね。」
ひょい、と眩しい光を遮って部屋に入ってくるその人は、にこりと笑みを浮かべてそう告げる。
「刹那!?」
にこりと優しい笑みを浮かべる彼女の目元は‥‥赤く腫れていた。
「もう大丈夫なのか?」
「ちょっと掠っただけだもん。」
永倉の問いかけに平気、と答えて沖田を咎めるように見る。
「総司おまえさ、もうちょい言葉選べよなー」
「なんで?僕間違ってないでしょ?」
「‥‥」
あっさりとした沖田の言葉に、千鶴は再びしゅんと肩を落として俯いてしまう。
その彼女の耳に届くのは、
「刹那は自分の仕事をしただけなんだもん。
千鶴ちゃんが気に病む必要ないじゃない。」
そんな、言葉で、
「‥‥え?」
顔を上げれば、沖田も刹那も笑ってこちらを見ていた。
二人の目に、彼女を咎めるような感情はない。
ただ、優しく自分を見ていて、
「敵と遭遇したら戦うのが私の仕事。」
「敵から仲間を守るのも僕らの仕事。」
だから、
「君が気に病むことはなにもない。」
そう、二人は確かに言ってくれた。
気休めでも慰めでもなく、真にそう信じるという眼差しで、そんな事を、
言う、
から、
「〜〜っ〜〜」
ぐしゃと顔を思い切り歪めた少女は、大粒の涙をぼろぼろと零して泣いた。
「土方さーん、刹那が千鶴ちゃん泣かしましたー」
「ええ!?私のせい??」
どこか暢気そうに聞こえる声に、涙は、まだ止まりそうにない。
涙が零れる理由は‥‥
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
理由を聞かれたら、
なんとなく――
と答える。
そう、なんとなく。
一人でいるのがなんとなく嫌だった。
だから、誰かと話がしたいと思って、ここに来た。
そう答えると、土方さんは思いきり眉根を寄せて、それから盛大なため息をついた。
「あ、来ちゃまずかったですか?」
出迎えるなりそんな反応だったから、私は不安になって訊ねてみた。
そういえば、ここ数日、なんだかんだで忙しかったのを思い出す。
多分土方さんの事だから連日寝てないんだろう。
それを決して悟らせはしないけれど、疲れてる、はず。
「すいません。
それならすぐ戻りますから、眠ってください。」
それじゃ、一あたりの部屋に転がり込んで酒でも飲む事にするか。
ちょっと残念な気持ちで立ち上がろうとすると、土方さんは「ちがう」と呻いて、睨み付けた。
睨み付ける。
んん、違うな。
不機嫌だけど、ちょっと困ったみたいな顔だ。
なんだ、これ?
「あのなぁ、年頃の女がこんな夜遅くに男の部屋に来るって事自体が考えもんだろうが。」
ぼそ。
と不機嫌そうに告げられた言葉に、
「へ?」
私は小さく声を上げた。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
ちょっと冷静になって反芻してみる。
『夜遅く。
男の部屋に。
年頃の女。』
年頃の女。
女と男。
夜。
言葉だけを拾って、意味を考える。
彼が危惧している事は、つまり、
「ええぇえええ!」
答えが分かると思い切り大きな声を上げた。
「うるせぇぞ!」
即座に叱られ、慌てて口を手で覆った。
そうだ。
今は土方さんが言うように夜なのだ。
誰もが寝静まっている夜。
大声なんぞ上げたら皆を起こしてしまう。
いやいやでも、衝撃的だ。
それを危惧している‥‥なんて。
私は口から手を離して、まじまじと食い入るように土方さんを見た。
「い、今更言いますか?
私何度も夜に土方さんの部屋に来てたんですよ?」
そう。
今まで何度も夜に部屋を訪れた。
もっと遅い時間帯にだってある。
でも、
そんな事一度だって、
「そりゃ、任務だったからだろうが。」
言葉に土方さんは答えた。
確かに。
私が夜に部屋を訪れる理由のほとんどが「任務」についてだった。
急ぎの用件もあったから仕方なく、というのが本当の所だろう。
でも、でもだ。
「今はそうじゃねえだろうが。」
今は違う。
私が訪れた理由は任務の事ではなく、ちょっと話がしたい、という個人的なそれだ。
「一応、お前も女だろう。」
「一応っていうか、そうですね。」
「それなら危機感くらい持ちやがれ。」
「いや、危機感って今更言われても‥‥」
もう何年も皆の傍で「男」として暮らしてきた。
今更「女」に戻れと言われても難しいし、今更取り繕えない。
男だから女だからと遠慮されるのは勘弁だ。
第一、
「総司の部屋とか、一の部屋にも、この時間に普通に行くんですけど‥‥」
そうなのだ。
ちょっとした世間話をしにだったり、手持ちぶさただったから部屋になんて事もある。
酒を飲むからつきあえと乗り込んだ事だって多々あるのだ。
当たり前だと思っていた。
今までも、これからも。
だって、自分は女だけど皆の仲間で。
皆は仲間として見ていると思っていて‥‥
しかし、
「‥‥あ?」
土方さんは言葉にぴくりと片眉を跳ね上げた。
「なんだお前、今でも総司や斎藤の部屋に一人で行ってんのか?」
僅かに低くなる声。
不機嫌な顔。
あ。
まずい事を言った。
今更ながらに気付いて、否定の言葉を探すが、時すでに遅し。
「わっ!?」
唐突に伸びた手が、私を畳の上に押し倒した。
そして、大きな身体が逃げ場を奪うように覆い被さる。
影が重なり、温もりが触れる。
重たくはない程度に体重を掛けられ、ぎょっとした。
この展開は‥‥
「ひ、土方さ‥‥」
さら、
と彼の艶やかな黒髪がこぼれ落ちる。
「他の野郎にも‥‥こんな事されてんじゃねえだろうな‥‥」
「こ、んなことって‥‥」
「言ってやらないとわかんねえか?」
いつからそんなに察しが悪くなった?
と、彼の手が肌蹴た裾から侵入する。
冷たい、骨張った手に太股を撫でられ、思わず喉を小さく鳴らして、顔を背ける。
そうすれば土方さんの顔が近付いて、弱い耳たぶをかぷりと噛まれてしまう。
「させて‥‥ないだろうな?」
耳元で聞こえる、怒りと、それから情欲の混じった声。
常に見せる冷静なそれを失った‥‥男たる彼の姿だ。
自分にだけ見せるその男の欲に、妙に恥ずかしさを覚える。
「さ、させてない、です。」
耳に掛かる吐息に背筋が震える。
「本当か?」
べろ、と柔らかいそこを舐めあげられ、喉の奥から声が漏れそうになる。
声を上げたら陥落させられそうで必死に噛み殺した。
「本当です!させてません!!」
崩れそうになる己をしかりとばして、大きな声で答える。
すると、
「そうか。」
土方さんは耳から顔を離してくれた。
ほうっとため息を漏らした。
こりゃ、
実は今さっきも「一の所に行こうとした」なんて口を滑らせていたら酷い目に遭うところだったな。
というか、
それじゃ総司とあんな事をした、なんて言えるはずもない。
うん、これは私の記憶の中で抹消しておこう。
そう心に決めて、私は土方さんを見上げた。
相変わらず怒った顔をしているが、その瞳の奥には熱を浮かべている。
激しい欲を湛えた色を。
「いいか、二度とこんな時間に男の部屋に行くんじゃねぇぞ。」
何が起きるかわかったもんじゃねぇ。
という言葉に、私はこくこくと頷く。
はい、身をもって知りました。
これが軽率な行動だって‥‥
「わ、分かりました。」
「よし。」
私の言葉に、土方さんは神妙な顔で頷く。
だけど、
「あのぉ‥‥土方さん?」
「なんだ?」
「ええと‥‥」
その状況に、私は困ったように言葉を探す。
「ど、どいてもらえないでしょうか。」
彼はまだ私の上に覆い被さったままだ。
立ち上がろうにも彼がそこにいるのでは動けない。
それに‥‥
それに、気のせいか、
「ひ、土方さん?」
さっき離れたはずの距離が縮んでいく。
紫煙の瞳がにやり、と、人の悪い笑みを浮かべる。
「やっぱり、きちんと教えておいた方がおまえの為だろうな。」
な。
何をですか。
嫌な予感がして、私は頬を引きつらせる。
彼との距離は、もう、ほとんどない。
鮮やかに笑いながら、彼は、短く、告げた。
「軽率な行動の、代償ってやつだ。」
悪党みたいに笑みを浮かべたまま、私の唇を塞いだ。
ああ。
やっぱり、一の所に行けば良かった――
無自覚の代償
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