「沖田さん‥‥私にうつしてください。」

それは、じめついた夏の事。

青ざめた顔で、千鶴ちゃんはそう言った。

私にうつしてくださいと。

――なにを?

と問えば、彼女は唇を引き結んだまま、ただ真っ直ぐに僕を見ていた。

真剣な、真っ直ぐな瞳に。

君が言いたい事が分かってしまう。

だめだよ。

僕は笑った。

君は、生きなくちゃいけない。


「うつしてください。」


そう言って近付く顔に、僕は拒絶するように顔を背ける。

どれほど、

君が必死だというのか。

どれほど、

自分が弱っているというのか。

女の子の力に押し負けるように、僕は布団の上に倒れ込む。

普段の君なら絶対に顔を赤くするくせに、こういうときは大胆で。

「ちづるちゃ‥‥」

だめだ、

怖いくらいに真剣な眼差しが伏せられた。

唇が重なった。

重なっただけじゃなく、そのまま唇を押し開かれれる。

ごほ、

と口づけの合間に噎せる。

慌てて離そうとするのを、千鶴ちゃんが遮った。

もっと深く、そうするみたいに舌を絡められた。

こういう時だけ、君は‥‥

じわと、血の味がこみ上げる。

口の中に広がって、

ご、く、

と彼女が嚥下する音が聞こえた。

――絶望の音だ――

僕は、君に生きていて欲しかったのに‥‥

目を開ければ、千鶴ちゃんも僕を見ていた。

ひどく、
ひどく、
穏やかな顔で。

僕を、いとおしむような瞳で。

嗚呼。
かみさま、ごめんなさい。


僕は彼女の羽根を――もぎとった――


もしもそれがだというのなら
僕は喜んで地獄に
ちよう


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



「あれ?」

沖田はその部屋の中を見て声を上げた。

開けはなった襖から見える部屋の中。
相変わらず殺風景で、鏡台さえない女らしくもおもしろみもない部屋。
刹那の部屋。

その部屋の片隅に、それがあった。

壁に立てかけられた、彼女の刀。

確か『久遠』とかいう刀だ。

それが壁に立てかけられている。

しかし、

「主はいないねぇ。」

刹那の姿はない。

副長助勤ともあろう者が、刀を忘れる‥‥なんて、呆れる。
刀は武士の命‥‥
といっても、刹那は武士ではないけれど、いついかなる時に狙われるか分からないというのに、これはまずいだろう。

「まったく。大した副長助勤だよ。」

とはいえ、丸腰であろうと浪士の一人や二人、素手で殺してきそうなのが刹那という女だけど。

そんな事を考えながら沖田はそっと部屋へと上がった。
断りもなしに女の部屋に上がる‥‥というのは少々不躾ではあると思うが、そこは沖田だ‥‥
それに開けはなったまま出掛ける刹那も悪い。

すたすたと部屋の中に入ると、迷うことなく刀の元へと歩み寄る。

黒塗りの鞘。

久遠は、出自不明の刀だ。

反りが美しい刃。

持ち上げると、意外にも軽い。

彼女の刀を持った事はあまりないが‥‥なるほど、これなら女の腕力でも振るえるというものだ。

「あ‥‥」

ふと。
沖田は何かを思いついたように声を上げた。
それから、


「刹那。
刀忘れてるよ。」
巡察に出掛ける彼女に、沖田はいつもの笑みを浮かべてそれを差し出した。
「ああ、悪い。」
「丸腰で出掛けるつもりだったの?」
「まさか‥‥んなわけないだろ?」
刹那は苦笑を浮かべて刀を受け取る。
それを腰に差すと、一度、トン、と鞘を叩いた。
「じゃあ行ってくる。」
「いってらっしゃい。」

にこやかに、彼は手を振って。
それから、

「‥‥気をつけて〜」

にんまりと。
悪魔の笑みを浮かべた。



「ふあ‥‥」
「刹那ぁ、巡察中だろ。」
つい欠伸を漏らした刹那を、隣を歩いていた土方が窘める。
あ。
と彼女は小さく声を上げ、こちらを半眼で睨む彼にだって、と苦笑を漏らした。

「ここ最近平和だったじゃないですか。」
「だからって巡察中に欠伸を漏らすやつがあるか。」
「欠伸は気を張ってても出るもんです、仕方ないんですよ。」
「おまえの場合は気が緩んでるだけだろうが。」
「緩んでません‥‥っていうか、土方さんこそ、その眉間の皺どうにかしてくださいよ。」

平和な時までそんな顔されたんじゃ、町の皆が逃げちゃいます。

「そんなんじゃ、殺人鬼と間違えられますよ?」
「ほう‥‥」
「あ、その笑い方、怖い!
軽く百人は斬り殺してそう!!」
不気味。
と言われて、土方は「阿呆か」と視線を前に向けた。

ざ。
ざ。

と二つの足音が響く。

「土方さん。」
「ああ?」
「最近総司が大人しすぎて怖いんですけど‥‥なんかありました?」
「ねえ。
っつか、それは俺も思ってた。」
「絶対あいつなんか企んでますよ。」
そして多分、その矛先は土方だ。
「‥‥土方さん、総司に好かれてますよねぇ。」
「嬉しくねえな。」
「あ、安心してください。私も土方さんが好きです。」
「余計に嬉しくねえ。」
「ってことで、この間土方さんの部屋に悪戯したのも好意の表れです。」
「あれはてめえか‥‥」
ゆら。
と殺気が立ち上る。
しかし、それに刹那は臆した様子はない。
だから好意ですってば、とあっけらかんと言われては、怒る気も失せるというものだ。
「ったく。」
土方はため息混じりに呟いて、口を閉ざした。

ざ。
ざ。

「あー、平和だー」
「刹那‥‥だから‥‥」
「‥‥平和すぎて、頭沸いちゃった人がいるみたいですよ。」

唐突に。
刹那の瞳に殺気が滲む。
言葉を引っ込めてちらりと視線を前に向ければ、通りの先には数人の浪士の姿。
ただの散歩、というには大勢で、そして、殺気立っている。

なるほど、

頭の沸いた連中‥‥だ。

軽口を叩きながらも、刹那も土方も隙はない。
ただ立っているだけというのに、それだけで気圧されるような威圧感さえある。
さすがは副長と、その補佐‥‥とでも言うべきか。

刹那は目をすいと細めた。
氷のような冷たいそれは、つまらなさそうな色だ。
目の前のそれが、雑魚だと分かったから。

「新撰組の土方歳三だな。」
「ほぉ‥‥俺を誰だか分かってて喧嘩を売るとは、良い度胸してるじゃねえか。」

浪士の言葉に土方は口元を歪める。
それはそれは悪い笑みで、刹那は心の中で、やっぱり殺人鬼みたいだ、と思った。

「悪いが、ここで死んで貰う。」

すら。
一人が抜刀をすれば、それに倣って皆が刀を抜きはなった。

「おまえらみてえな雑魚にやられるわけにはいかねえよ。」

挑発的な笑みを湛えて、土方も抜きはなった。
白刃が真昼の光を浴びてきらりと輝く。

「刹那。」
「わかってます。」

短く応え、彼女は己の刀の柄を握り、

――ぐ――

「あれ?」

その口からまた、緊張感のない声が漏れた。

「どうした?」

じり。
と相手との距離を詰めながら、土方は問う。
刹那は視線だけを真っ直ぐ前に向けたまま、二度、三度、と力を入れて引っぱり‥‥

「土方副長。」

静かに彼を呼んだ。

そして、

「刀が抜けません。」

至極真面目な顔でそんな事を言った。




「なんだっててめえは出てくる前に確認しねえんだ!」

目をつり上げて、鬼副長の名のごとく鬼の形相で土方は怒鳴る。
その息は僅かに上がって、それのおかげか怒鳴り声が更に迫力を増した。

「おまえには緊迫感ってものがねえのか!?」

いやいや。
と刹那は心の中で呟いた。

緊迫感がないのは、土方さんの方ですよ。

ちらりと視線を向ければ、
壁には血の跡。
地面は踏み荒らした形跡。

あたりには倒れた浪士達の姿。

それを見ながら、刹那は心の中でそっと囁く。


まず。
こいつらをどうにかしてから叱ってくださいよ。


うかつな人


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−



それは一瞬の油断だった。
誰でもある、一瞬の油断。

しかし運が悪い事に、その一瞬の油断の瞬間、

――がっ――

「っ!」

稽古をしていた平助が吹っ飛んできて、
その彼のひじ鉄を、思い切り、
頭に食らった。

「刹那!!」

声が、遠くで聞こえたのを覚えている。



そよそよと冷たい風。
額に何か冷たい何かが触れて、刹那はゆっくりと重たい瞼を開いた。
ぼんやりとぼやける視界には黒が映り混んでいる。
あれ、なんだろう?
そう思っていると、

「気付いたか。」

聞き慣れた声が降ってきた。

一度、二度、と瞬きを繰り返す。
視界は段々と鮮明になっていき‥‥
「一‥‥‥?」
自分が見上げていた黒いものが、彼なのだと気付いた。
彼は自分を見下ろしたまま、常とは変わらない‥‥でも、いつもよりも真剣な眼差しを向けている。
「具合はどうだ?」
気分は悪くないか?
と聞かれて、刹那は怪訝そうな顔をした。
何故そんな事を利かれるのだろう?
と。
それから、ふと何故見上げる彼が遠いのだろう‥‥と思った。
確かに彼の方が少しばかり高かった気もするが、これほどに違っただろうか。
いや、それになんだか、視界に映り混む彼とは縦横の世界が違う。
あれ、あれれ?
と思っていると、ふいに自分の頭の後ろに暖かい何かを感じた。
手を伸ばせば、それは布のようで‥‥しかし、布の下は暖かい。
なんだこれは?
と、それを確かめる内に‥‥自分は今横になっているという事が分かって、そして同時に、なんだか納得できてしまえる答えが見つかって‥‥

「ええと‥‥もしかして、私は今一に膝を借りてる状況なのか?」

「そうだ。」

あっさりと彼は頷いた。
どうやら、
自分は彼に膝を借りて‥‥つまり、膝枕をされている状況らしい。

何故?

刹那は眉根を寄せた。

「‥‥覚えていないのか?」

「平助が吹っ飛んできた瞬間だけ、覚えてる。」

そうだ。
平助が吹っ飛んできて、それから、
ああ、そうそう、

「肘。」

そうだ。
肘だ肘。
最後に焼き付いたのはあいつの肘だ。
と答えて、それからようやく全容の理解した。

「私、倒れたのか。」

平助のひじ鉄を食らって。
そう聞けば、斎藤は真面目な顔で頷いた。

なんとまあ情けない事だ。

稽古をしている横を通ったのだから、気を張っていなくてはいけないというのに、ぼんやりと考え事をしていたおかげで、ふっとんできた彼を避ける事もできず、おまけにひじ鉄を食らって気絶‥‥そして、男の膝を借りていた、なんて。
情けない。

「‥‥ごめん。もう起きたから大丈夫。」

そう言って身体を起こすと、

「起きあがるな。」

斎藤の手が刹那の胸を押した。
まだ寝ていろ‥‥という事らしい。

「でも‥‥」
「平助の相手をしていたのは、俺だ‥‥」
「え?」
彼は真面目な顔で続けた。
「だからおまえが倒れた原因は俺にもある。」
と。
そう言われて、

「‥‥」

ああなるほど。
彼は彼なりに責任を感じているのだ、と気付いた。
相変わらず表情が見えないが、その瞳は少しだけ‥‥曇っている。
心配‥‥してくれているらしい。

てっきり、起きた瞬間にたるんでいると怒られるかと思っていたが‥‥

刹那は小さく笑った。
それじゃあわかったと頭をもう一度彼の膝に預ける。
斎藤はしばらく手を退けなかった。
まだ彼女が無理をするとでも思っているのだろう。

ふと、刹那はそれに気付いて、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「一‥‥手、退けてくれないかな?」
「駄目だ、起きあがるつもりだろう?」
ちがうよ。
と刹那は笑った。
そうじゃなくて、

「おまえが今触ってるの、私の胸だ。」

彼が触れているのは、刹那の胸。
正確には胸よりも少しばかり上だけど‥‥胸は胸だ。

「私、一応女だけど?」

言葉に一瞬目を見張り、

「助平。」

にやにやと笑う彼女に、斎藤は手を引くと同時にそっぽを向いてしまった。
その横顔は赤くなっていて、
刹那は可愛いなぁと年上の彼に対してそんな事を思うのだった。


可愛い人だから