「うわぁあああ!」

  突然、屯所に響いたのは悲鳴だった。
  悲鳴なんぞ珍しくもなかった。
  しかし、その声を聞いた瞬間、まるでそれが当然というように走った。

  ばたばたとそれぞれが血相を変えて、声の聞こえた方へと走る。
  途中で知った顔とばったりと会うのは当然だ。
  幹部のほとんどが、声を聞いた瞬間に走ったのだから。

  ばたばたばたと皆が揃って走ると、平隊士たちは何事かと廊下へとにょきにょきと顔を出す。

  「!!」
  そんな彼ら、幹部が向かったのは彼女の部屋。
  先ほどのは彼女の‥‥お世辞にも女らしいとは言えない悲鳴だ。
  副長助勤という大任に就いている彼女は、悲鳴なんぞを上げる人間ではない。
  不逞浪士なんぞ怖くはないと笑うし、怪談話なんかはげらげらと笑って聞いているような女だ。
  ねずみやごきぶりなんぞを怖がる可愛い女でもない。
  大抵の事は笑い飛ばす彼女が、悲鳴を上げたのだ。
  これは大事であると幹部達は揃って彼女の様子を見に来たのだが、

  「‥‥あん?」

  襖を開け、中を見た彼らは揃って眉根を寄せた。

  部屋の主は壁に張り付いてこちらを驚きの眼で見ている。
  どういうわけか部屋の物は散乱し、あちこちに色んなものが散らかっていた。
  そして、何故か、
  その部屋には沖田がいた。
  「‥‥あ‥‥」
  彼は、の方へとにじり寄っている所だった。

  「総司、てめぇ‥‥」
  その瞬間、原田が指を鳴らし、軽蔑するような眼差しを彼に向けた。
  部屋の有り様と、追いつめられた、追いつめる沖田、とで結びついた答えは、
  「に何しようとしてた?」
  沖田がに不埒な事をしようとしている‥‥というものだった。
  彼と同じように、永倉と藤堂も受け止めたらしい。
  その目が眇められ、咎めるようなものになっていった。
  「あ、そういうのじゃないですよ?」
  三人からそんな視線で見られた沖田は誤解だと手を振る。
  彼は別にを襲おうとかそんな事を考えていた訳ではない。
  「っていうか、僕が襲った所でを押さえつけられるわけないし‥‥」
  「力づくでやったらわかんねーだろ!」
  藤堂が噛みつくように言う。
  いやいや、それならもう少し色気のある悲鳴だっただろう‥‥と言おうとしたが止めた。
  なんだか言っても聞く耳を持たない気がしたからだ。

  「、一体何事だ?」
  冷静に本人に訊ねた方が早いと判断したらしい斎藤がに声を掛けた。
  問われたは、些か青い顔で、
  「え、いや、その‥‥」
  と珍しく口ごもってしまう。
  それから視線を落とし、びくっと突然肩を震わせて顔を上げた。
  「‥‥っ」
  目を彷徨わせ、ぎょっとしたそれになる。

  なんだ?

  と斎藤が彼女の視線の先を追うよりも前に、

  「なんでもないってば。」
  ぱんっと沖田が手を叩いて立ち上がる。
  そうして押し掛けた幹部に、ほら邪魔だから出て、と彼らを押し返そうとする。
  「僕はに何もしてないし、これからするつもりもない。
  ただに大事な用があるんだって。」
  「そんなの信じられるか!」
  「あー、はいはい、文句なら後で聞くよ。」
  沖田は言うと、彼らの背中を乱暴に押し出して、

  「とにかく今は、邪魔しないで。」

  一同を冷たい目でじろっと見遣った後、すぱん、と勢いよく襖を閉めた。

  それが有無を言わさぬ勢いで、何故か幹部の誰一人として、その襖を開けようとした人間はいない。


  さて。
  と沖田は手をぺちぺちと叩き、振り返る。
  その瞬間、ひら、と視界を黒い物がよぎった。
  「っ!」
  ふわふわと暢気そうに飛んでいるそれは、何故か迷うことなくの方へと近付いてくる。
  彼女の顔は強ばった。
  「ひ」
  と短い悲鳴が上がる。
  何故なら、それが彼女の頭に止まったからである。
  春風に吹かれ、ふわふわと揺れる髪に、
  一匹の紋白蝶。
  それはさながら髪を飾る花びらのようにも見える。
  これが小さい子供ならば喜んだことだろう、が、は違った。

  微かに髪に何かが触れている感触に、は沖田を見てぱくぱくと口を開閉させた。
  音には出せず、
  「たすけて」
  と言っている。

  「じっとして。」
  沖田は言うと、そうっと彼女の頭へと手を伸ばす。
  の髪に止まった蝶々は、暢気に羽根を休ませていた。
  近付くとふわりと甘い香りがした。
  きっとそれが、蝶々を惹きつけたのだろう。

  「あ‥‥」
  彼の手が届くより少し前、まるで彼を嘲笑うように、ひら、と蝶々は空に浮かび上がった。
  それから数回空を巡回すると、庭に面した襖から庭へと出て行ってしまった。
  追いかけて襖を閉じようとしたが、

  ぐ、

  僅かに何かに引かれて、沖田は止まる。
  視線を落とせばいつのまに掴まれていたんだろう。
  の指先が、彼の袖を掴んでいた。
  その指は、僅かに震えていた。

  「‥‥そ、総司‥‥早く取って‥‥」

  ぎゅっと目を瞑っている彼女は気付かない。
  頭に止まっていた蝶々はもう飛んで部屋からいなくなっていることに。
  「そ、総司‥‥」
  お願いといつもは聞くことの出来ない情けない声が彼女の口から漏れる。

  たかだか蝶々なのに‥‥と沖田は呆れた。
  そう、たかだか蝶々。

  不逞浪士も、幽霊も、ねずみもごきぶりも笑い飛ばし、鬼の副長さえも怖れないという副長助勤殿は‥‥この世で何より
  蝶々が苦手という人間であった。

  理由は分からないが、彼女は蝶々に異常なまでの拒絶反応を起こす。
  同じ形状の蛾も好かないが、それよりも近付いてくる蝶々の方が苦手だった。
  それに、蛾よりも蝶々の方がふわふわとなんだか不気味に近付いてくるから苦手らしい。

  そんな事実を知る人間は実は少ない。
  きっと幹部の中で知っているのは沖田と‥‥それから、土方くらいなものだろうか?
  意地っ張りな副長助勤殿である。
  おいそれと弱みは見せない。

  「そ、総司、はやくっ」
  「もういないってば」
  「う、嘘だ」
  「嘘じゃないよ、目を開けてみなって」
  「‥‥や、やだ」
  情けなく眉を下げて、泣きそうな声を彼女は漏らした。

  たかだか蝶々なのに‥‥ともう一度沖田は口の中で呟くが、
  そうやって蝶々ごときに怯える彼女は、

  ――可愛い――

  と思った。

  素手でも人を殺しかねないという副長助勤殿とは思えない。
  いつもはかわいげがないと思っているが、こう時々弱った所を見せられると‥‥なんだか無性に優しくしてあげたくなる。
  沖田はふにゃと口元を歪ませて、蝶々を捕まえようとしていた手を、彼女の頬へと添える。
  途端、びくっと彼女は震えた。
  「大丈夫」
  安心させるように優しく囁くように言うと、沖田はそっと、甘い香りのする髪に口づけ、
  「もう、大丈夫」

  もう一度囁いて、未だに震える唇に、自分のそれを押しつけた。


  次の瞬間――飛んできたのは平手。



うちょ



曰く。
「弱っている女の子に何をする」

実はの苦手なものは蝶々だったりします(笑)