その人は何も言わずに去っていった。
  最後の一言さえ、彼女に告げず。
  まるで砂のように、
  崩れて、
  消えた。

  さよならさえ‥‥
  言えないまま。



  ばたばたばたと、慌ただしい足音が聞こえた。
  「!?」
  何事かと土方が振り返ると同時に襖が開く。
  反射的に傍らに置いてある愛刀へと手を伸ばすが、それより早く、それが飛び込んでくる。
  「っ!」
  どさっと、遠慮無く飛びかかるそれは、しかし、
  ふわ、
  と香る花のような甘い香りを漂わせ‥‥

  「?」

  柔らかそうな飴色の髪が、静かに舞い落ちる。
  それを一瞬、呆けたように見守り、我に返ると顔を顰めた。

  「ったく、どこの賊かと思ったじゃねえか。」

  襖を開けるときは声を掛けろと言っているだろう。
  と窘めるが、彼女からの返答は、ない。

  「‥‥おい、どうした?」
  訝りその細い肩に手を伸ばして、その時、初めて気付いた。
  彼女が、
  震えていることに。

  「?」

  彼女はがたがたと小刻みに震えながら、彼にしがみついていた。
  その様子は尋常じゃない。
  どうしたと肩を掴んで顔を覗き込めば、そこで、
  「――!?」
  目を疑った。

  は震えていただけではなかった。
  彼女は、
  声もなく、
  泣いていた。

  ぼろぼろと涙が頬を伝い、
  ぽたりと下に落ちた。

  「‥‥なにか、あったか?」

  途端、彼の声は真剣そのものの声へと変わる。
  そうしながら伝い落ちる涙を大きな手が拭ってくれた。
  はひっと嗚咽を漏らしながら、濡れた瞳を開き、彼を見つめる。
  そこには‥‥恐れの色がありありと浮かんでいて、土方は眉を寄せた。

  なにが。
  あった?

  もう一度訊ねれば、は嗚咽を漏らしながら口を開いた。

  「土方‥‥さんが‥‥」
  震える唇が音を紡ぐ。
  「私のまえから‥‥いなくなっちゃ‥‥った‥‥」

  彼は目の前にいるというのに、目の前からいなくなった。
  まるで、
  砂のように。
  溶けて、
  消えたと。
  彼女は言った。

  それは夢だ。
  悪夢を見て泣くなど子供じゃあるまいし‥‥
  と、もし彼が「そう」なっていなければ笑ったに違いない。
  だけど、彼は知っている。

  羅刹になった者が、どのような末路を辿るのか。

  彼は見た。
  かつての仲間が、
  灰となり、消えていくのを。

  そう、いずれ、自分がなるべき姿を、見た。

  「‥‥っ」
  ひ、とは苦しげに息を吸い込む。
  ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
  「おいて‥‥いかないでっ」
  くしゃと泣き顔に歪めて、は頬に宛われた手を掴む。

  おいていかないで。
  お願い、一人にしないで。

  はそう言って泣いた。

  かつての彼女は‥‥涙を見せたことがなかった。
  泣くところか、弱音一つ吐かなかった。
  離れていく仲間たちをただ見送る人間だった。
  そしてなんでもない顔で笑う女だった。

  それが‥‥自分の為に泣いている。

  いかないでと。
  一人にしないでと。

  縋って泣いている。

  苦しいと思うと同時に、愛しかった。
  愛しくて愛しくて、たまらないと土方は心の底から思う。

  「馬鹿が‥‥」
  くっと低く喉を鳴らして、土方はを引き寄せた。
  小さな身体をしっかりと抱きしめて、ため息混じりに呟く。
  「俺はそう簡単に逝ったりしねえよ。」
  簡単に逝けるものか。
  そっと背を抱けば小さな手がきゅっと強く衣を握りしめるのが分かった。
  「おまえを残してなんて‥‥」
  危なっかしくて仕方がない。
  と彼は苦笑を漏らした。

  まだ、最期のときは遠いはずだ。
  まだ、共に在れる、はず。

  「‥‥だから、安心しろ。」
  な?
  と優しい声が聞こえて、はようやく、安堵のため息を漏らすのだった。



  「‥‥夜ももう遅い。
  早く寝ろ。」
  ぐしぐしと鼻を啜る彼女に促した。
  「俺はもう少しこれを書いてから寝るから。」
  だから先に‥‥と言うと、の手が袖を掴む。
  見ればもう涙は止まっているらしいが、ひどく心細そうな目をこちらに向けていた。
  「‥‥ここにいちゃ‥‥駄目ですか?」
  その目で問われ、土方はちょっと困惑した。
  「すぐに終わるぞ。」
  もうあと最後の数行を書くばかりだ。
  火をおこしていない部屋でそれを待つよりは暖かな布団の中にいるほうがいいと勧めるが、
  「邪魔、しないから‥‥」
  とこれまたらしくもない気弱な声で言う。
  不安だからなのだろうが‥‥ちょっと、その反応は狡いぞと土方は思った。
  涙に濡れた瞳で上目遣いにこちらを見る彼女は、不謹慎かも知れないが、可愛い。
  なんというか、甘やかしてやりたくなる。

  土方は困った顔で書きかけの手紙と、とを見比べ、
  「‥‥わかったよ。」
  やがてため息を零すと、腰を浮かせた。
  「もう、今日は寝る。」
  これでいいだろ?
  と言いながら、へと手を伸ばした。
  引き寄せられ、背と膝裏とを支えられ抱え上げられる。
  「私、歩けますよ。」
  抱き上げられ、は僅かに顔を染めた。
  「いいんだよ。俺が好きでやってることだ。」
  甘やかしてやりたい気分なんだと土方は答え、手元の灯りを吹き消すと部屋を出た。


  開けはなった襖に、放られた布団。
  彼女がどれほど慌ててすっ飛んできたのか分かる惨状に、土方は苦笑を漏らす。
  ぼんやりと灯りの灯った部屋の中を進み、布団の傍で屈み込んだ。
  「そういえば‥‥」
  とを布団の上に寝かせてやりながら呟いた。
  「‥‥おまえ、すこし痩せたか?」
  「そう‥‥ですか?」
  ああ、と土方はを見下ろして眉を寄せる。
  抱き上げて少し軽くなったと思ったが‥‥改めてその顔を見るとやはり顎の線が細くなった気がする。
  「ちゃんと食ってるのか?」
  細くなった顎の線を指先でなぞりながら問われ、はくすぐったいと目を細めた。
  「おまえはただでさえてめぇの事に頓着しねえんだ。
  そのうち倒れちまうぞ。」
  「平気ですよ。」
  「そう言ってこの間倒れただろうが‥‥」
  「忘れました。」
  ひょいとは肩を竦める。
  まったく。
  土方は一つため息をつくと、布団を捲ってぺしぺしと叩いた。
  「さあ寝るぞ。」
  「‥‥土方さん。」
  うんとは言わない彼女に土方は嫌そうな顔をしてみせた。
  「まさか、まだ寝ねえとか言うんじゃねえだろうな。」
  もういい加減な時間だ。
  早く眠らないと明日がつらい。
  しかし、はそれが分かっていながら首を縦に振らない。
  「‥‥じゃあ、なんだ?
  俺に子守歌でも歌えってのか?」
  「ううん、そうじゃなくて。」
  はふるっと首を振り、しかと彼を見つめて、

  「‥‥してほしいって‥‥言ったら、怒りますか?」

  そっと、囁くように彼女は訊ねた。



  真摯な眼差しがこちらを見上げている。
  いつもの意地の悪いそれではなく、どこか、頼りなげな瞳だ。

  してほしい。

  何を?
  と訊ねるほど、彼は子供でも愚かでもない。

  彼女が求めるのは、自分だ。
  自分の温もり。
  愛情を。
  欲しいと言っているのだ。

  こく、と一つ喉を鳴らして息を飲む。

  「‥‥いいのか?」

  普段、
  から求めることは、少ない。
  求めることが恥ずかしいのか、それほど欲がないのかは分からないが‥‥今までほとんどが、土方から求めた。

  いいのかと訊ねれば、はこくりと頷き、そこで少し目元を恥ずかしそうに染め、視線を落とした。

  「おいおい、自分から誘って‥‥その反応はねえだろうが?」
  そんな彼女が愛おしくて、土方は意地の悪い言葉を言いながら、細い顎を押し上げる。
  しっとりとした頬を手で包み込むと、彼はそっと目を細めて言った。

  「こればっかりは甘やかしてやれねえぞ。」

  甘やかしてやりたいけど‥‥いつだって彼女を腕に抱けば、そんな余裕は無くなってしまう。
  甘やかしてあげたいのに泣かせてしまいそうだ、と彼は自信なさげに言うと、それでもいいとは彼の首に手を回した。
  甘えるような仕草に、やはり、男の自制心というのは持ちそうになかった。


  「ん、ぅぁあ‥‥」
  苦しげな喘ぎ声が聞こえる。
  きつい締め付けに、だからもう少し慣らした方がいいと言ったんだと心の中で彼は呟いた。
  愛撫もそこそこに、ははやく欲しいと彼を求めた。
  求められるままに身体を繋げれば、その中はひどく狭く、きつかった。
  さほど濡れていないのだから仕方のない事だ。
  「いっ、つぅ‥‥」
  痛みを堪えるように、ぎゅっと唇を噛みしめる。
  「あまりきつく噛むな。
  唇を噛みきるぞ。」
  土方は告げ、安心させるように額に一度口づけを落とす。
  「おまえは何もしなくていい。
  俺の手に感じていろ。」
  そう言って、細い首筋に唇を寄せながら二人の繋がった場所へと手を伸ばした。
  「ん‥‥んんっ」
  僅かに溢れた蜜を指で掬う。
  掬ったそれを、まだ触れていない花芽へと塗りたくった。
  「ふぁあっ‥‥」
  一瞬、身体は強ばる。
  しかし次の瞬間には甘い声を漏らして、ふにゃと力が抜けた。
  同時に中から蜜があふれ出し、内部を満たしていく。
  「ひじ‥‥んぁあ‥‥」
  いつものように追いつめるのではなく、なんだか優しく撫でられて身体の奥がきゅんとした。
  ぴりっと足先まで震え、は縋るように男の脚に己の脚をすり寄せてきた。
  身体の力が完全に抜けきった頃合いを見計らい、
  ず、
  と楔をねじ込む。
  「んくっ!」
  今度は難なく、それは奥へと到達した。

  拒むではなく、熱く迎え入れるような体内に、土方は一度、安堵のため息を漏らす。

  「‥‥」
  ふいに、空気を震わす声が聞こえ、彼は目を上に向けた。
  女の頬を、また涙が伝っていた。
  それは痛みのそれではないだろう。
  声を漏らさぬようにして泣く彼女に、土方はもう一度馬鹿、と呟いた。

  「俺はまだ死なねえって言っただろうが‥‥」

  そう言って強く抱きしめると彼女の細腕が背中へと回った。

  「信じてねえのか?」
  「ごめ‥‥ごめんなさっ‥‥」
  そうじゃない。
  信じていないわけじゃない。
  でも、怖いのだ。
  毎日が怖いのだ。

  朝目が覚めたときにいなくなっているのではないか。
  いつの間にか消えているのではないか。

  今の瞬間が、
  夢なのではないかと。

  不安で堪らないのだ。

  その腕に彼の温もりがあるのに。
  確かに彼はここにいるのに。
  ここにいて、愛してくれているのに。
  なのに。
  不安だなんて。

  「ごめ‥‥なさっ」

  自分が、こんなに弱いと思わなかった。
  こんなに弱く、惨めだなんて思わなかった。
  泣いて彼を困らせるなんて。
  思わなかった。

  ふと、土方は笑う。
  泣きじゃくる彼女の目元に口づけを落としながら、また「馬鹿」と呟いた。

  「それほどまでに想われて、嬉しくねえ男がいるかよ。」

  囁き、唇を合わせる。
  情事の最中にしては優しい口づけを繰り返し、少し、離れた。

  「不安なら何度でも言ってやる。」
  ひどく近い場所で、彼は真剣な眼差しで、言う。
  「俺は、簡単にはいなくならねえ。」
  彼女を安心させるための嘘ではない。
  それは、
  彼の誓い。

  「っう、ぁあっ」
  誓いを立てながら、男はずるりと身体を引く。
  身体を支配する強すぎる快楽には喉を逸らした。
  だけど、決して目は背けない。
  涙でぼやけるそれで、しかと男を見据えて、刻みつけた。
  「おまえを‥‥一人にするもんかっ」
  男も、
  苦しげに顔を歪めながらその目をしかと見つめる。
  「ひじか‥‥さっ‥‥」
  「約束だ。」
  彼は言ってもう一度唇を合わせた。

  約束だ。

  ぎり、と背中に爪が食い込む。

  きつくしがみつきながらは懇願した。

  「いくときは‥‥私もっ」

  戦慄く唇で、

  「私も連れて‥‥って‥‥」

  涙を零し、懇願する。

  一人残されても未来なんてないから。
  だから、
  逝くときは共に。
  共に、果てたい。

  「‥‥‥‥」

  「お願いっ」

  願うならば、彼女には生き続けて欲しいと思った。
  自分が死しても‥‥笑っていてほしいと。
  そう、思った。

  「‥‥わかった」
  土方は顔を歪めて頷く。
  彼女が本気でそれを願うならば‥‥
  「俺が、連れていってやる。」
  あの世まで、共に。

  「離さねえぞ」
  「はなさ、ないで」
  「地獄まで道連れだ‥‥」
  「どこまでも‥‥いくから」

  どこまでも。
  どこまでも共に。

  誓いの言葉を交わし、口づけを交わしながら、彼らは共に高みへと上り詰める。

  嗚呼。
  と最後に聞こえた声は、悲鳴のようだと思いながら、土方は熱い想いを女の中に、ぶちまけた。



  「だから、ちゃんと食えって言ってるだろうが。」
  膳の上に残されたおかずに、土方は顔を顰める。
  「だって‥‥」
  お腹いっぱいなんだもん。
  とは言うが、土方は駄目だと首を振った。
  「食え。」
  せめてこれとこれだけは食え。
  箸でひょいひょいと皿に乗せられ、彼女はえぇと不服そうな顔をした。
  「腹がいっぱいでも流し込め。」
  「土方さんの鬼。」
  「鬼で結構。
  いいから食え。」
  「‥‥」
  むぅと眉を寄せたまま、は皿の上に残ったおかずを睨み付けた。

  「食わねえなら、今日の外出は止めだ。」

  そんな彼女に土方が厳しい一言を告げる。
  「そ、そんなぁ!」
  「外で倒れでもしたらどうするんだ。」
  「大丈夫ですってば!」
  「駄目だ。」
  彼は首を横に振り、
  「行きたきゃちゃんと食え。」
  ぴしゃりと、まるで子供を叱りつけるように言ってのける。
  言われたは一瞬だけうぐぐと呻いたものの、やがて深いため息をつき、
  「‥‥食べます」
  眉根を寄せて箸を動かす。
  本当に満腹らしい。
  少々、苦しげな顔で食べる彼女に土方はそんな顔で食う奴があるか、と苦笑を漏らした。


  「今日は‥‥どこに行きたい?」
  着物を羽織りながら訊ねると、は目をまん丸く見開いた。
  「え?私が決めていいんですか?」
  いつもは彼の気の向いた所へと向かう。
  はそれについていくだけだ。
  目的もなくただふらりと歩くのは、も嫌いじゃない。
  それで構わないと思っていたが‥‥今日は違うらしい。
  「きちんと食えた褒美だ。」
  にや、と意地悪く言われは眉を寄せる。
  「‥‥それ、子供にいう科白じゃないですか。」
  私子供じゃないです。
  「子供より手が掛かるだろうが。」
  苦笑で土方は答え、寒々しい彼女の首元に襟巻きを巻いた。
  ああ、これじゃ逆だと思いながらもはこれはこれで悪くないかと、笑った。

  「それじゃあ、五稜郭の方に行きませんか?」
  「ああ‥‥構わねえ。」

  言って歩き出すその手を、は取った。
  少し冷たい、ごつごつした手。

  いつもならば、手を繋いで歩くなんて事はしない。
  でも、
  今日は手を繋いで歩きたいと思った。

  「‥‥」
  土方はこちらを見下ろすと、笑った。

  「行くか。」

  握ったその手を、一度、強く握り返して。

  「はい。」

  その優しげな笑みに、は応えるように微笑んだ――


 あの空の彼方まで、共に



  リクエスト『シリアス後、裏』

  シリアスということで、土方さんの寿命の話を書いてみま
  した。
  彼が羅刹になった時点で終わりというのは人よりも早く、
  またよりも先にきます。
  それについて、お互いがどんな不安を抱えているか……
  を今回考えました。
  書きながら思ったのは、ってもしかしなくても千鶴
  ちゃんよりも弱い女の子じゃないのかなぁという事でし
  た。
  あまりにシリアスすぎたので最後は幸せな感じで終わら
  せましたが……胸が痛いっす。
  だって絶対、終わりが来るんだもんさ(苦笑)

  そんな感じで書かせていただきました♪
  リクエストありがとうございました!

  2011.2.19 三剣 蛍