多摩川のほとりは一面黄色で染まっていた。
  春の花‥‥菜の花だ。
  ひらひらと紋白蝶が長閑にその花の蜜を求めて飛び回っている。

  誰かが以前その蝶を見て「可愛い」と言った。
  嬉しそうに追いかけていくその後ろ姿を見て、あれは頭がどうかしている、とは思ったものだ。

  にとってあれは天敵と言ってもいい生き物だ。
  牙を剥き出しにして飛びかかってくる野犬より、血の付いた刀を振りかざす人殺しより、
  怖い、生き物。

  それはどうしてか、自分の傍に近付いてくる。

  どうしてか、
  それに近付かれると固まってしまって動けない。

  逃げなければ‥‥そう思うのに。
  振りほどかなければ‥‥そう思うのに。

  まるで身体は凍り付いてしまったかのように動かなかった。

  何が一番悪いって言うと、その瞳を閉じることが出来ないこと。

  強ばって開かれた瞳には、ふわふわと浮遊する蝶が映っている。
  それがゆっくりと近付いてくるのを見たときには、あまりの恐怖でへたり込みそうになった。

  自分でも情けないとは分かっていた。
  でも、
  それだけは駄目だった。

  それに追いかけられるくらいなら‥‥人殺しを何十人相手にする方が、ずっと、まし。

  「っ」

  ひら、と一羽の紋白蝶が近付いてくる。
  は喉の奥で悲鳴を漏らした。

  来るな――

  強ばった瞳に殺気を滲ませる。
  普段ならば子供とは思えぬその鋭さに大人さえも裸足で逃げるほどであるが、今の彼女のそれでは恐らく子供でさえも恐
  れる事はないだろう。
  瞳には精一杯の去勢が見て取れる。
  琥珀は僅かに涙で潤んでいた。

  大の男に木刀で殴られても、
  真剣で斬りかかられても、

  恐れを見せなかった彼女が、だ。

  それほど、彼女は恐怖していた。

  たかだか‥‥蝶一羽に、だ。

  「ひっ!」

  そんなの後ろからふわりと黄色い蝶々が飛んできて、頬を掠める。
  そのまま頭に止まろうと近付いてきた所であまりの恐怖で、

  ぺたん、

  腰が抜けた。

  そのままその場に尻餅を着いてしまった。
  もう、足に力が入らなかった。
  こうなっては‥‥もう、おしまいだ。

  「‥‥や‥‥」

  ふわふわと上空で漂っていた蝶たちがこれは好都合とばかりに押し寄せてくる。
  は本気で泣きそうな声を上げた。

  悲鳴の一つでもあげれば近くの店に団子を買いに行った近藤を呼び戻せるかも知れない。
  そう思うのに声は喉の奥に張り付いて出てこない。

  や。
  やだ。

  じわりと浮かんだ涙が世界を歪ませる。

  歪んだ、曖昧になった世界でもゆらゆらと揺らめくそれらが近付いてくるのが見えた。

  誰か‥‥

  は心の中で、情けない声を上げた。

  誰か、誰かっ

  助けを求めようと名前を思い浮かべるのに、誰もでてこない。
  恐怖のあまりにその人の顔さえも思い出せなかった。

  誰か、
  お願い、
  誰かっ

  ふわ、
  と視界いっぱいに白が迫る。

  助けて
  誰か助けて

  お願い

  誰か‥‥

  の喉がふるりと一つ音を立てて鳴った。
  その一瞬だけ、
  ぴったりと張り付いていた喉が動いて、その口から小さな声が漏れる。

  恐らく、
  誰にも聞こえないだろう小さな小さな、
  囁きとも言えない声で、


  「‥‥ひじかたさぁん‥‥」


  どうしてその名前が口から出てきたのか分からなかった。

  普段呼び慣れていないはずの人なのに。
  普段一緒にいるわけでもない人なのに。

  彼を呼ぶのがまるで当たり前とでも言うかのように‥‥
  その唇から彼の名前が零れた。


  その時だった。


  ふわ、と身体がまるで綿帽子にでもなったかのようにふわりと浮いた。
  驚きに見開かれた瞳から、白の大群が遠ざかり、
  代わりに、

  「‥‥あ‥‥」

  蝶には珍しい紫が飛び込んでくる。

  それは蝶々ではなかった。

  それは、
  綺麗な、
  綺麗な、
  人間の瞳。

  「‥‥ったく、なんだってこんな所にいやがるんだ。」

  その人は不機嫌そうな顔でそう言った。
  瞳をぱちくりと一度瞬くと、途端に世界が鮮明になり、眉間に刻まれた皺さえもしっかりと捉える事が出来た。
  驚くほど近くにその顔はあった。
  普段は見上げなければいけないその人が自分よりも下にいることに不思議に思ったが、どうやら彼に抱き上げられていた
  らしい。

  「苦手なら、こんな所に近付くんじゃねえよ。」

  まったく、手間を掛けさせやがってと顰め面で言う彼をは驚いたようにまじまじと見る。
  無言で見つめられ、彼はなんだ?と眉間の皺を更に濃くした。

  「なんか文句でもあんのかよ。」
  「‥‥」
  「‥‥おい?」

  は答えない。
  ただただ凝視するばかりだ。

  ああもしかしたらあまりに怖くて口が利けないのだろうか。
  そうだとしたら可哀想な事をした。
  蝶がやけに集まっているから何事かとしばし観察していたが、不思議に思ったのならすぐにでも駆けつけてやれば良かった。

  土方は困ったように眉尻を下げ、それから、笑う。

  「助けが遅くなって悪かった。」

  そして、小さな身体を安心させるように抱きしめる。

  とん、
  とん、と母親が我が子を宥めるように背中を優しく叩かれ、はその瞬間にはっと我に返った。
  我に返ったと同時に今までの恐怖が押し寄せて、身体が小刻みに震える。
  ああいけない。
  こんな態度を取っては彼を心配させてしまうというのに力を入れれば入れるほどその震えは強くなり、更に土方の抱擁も
  強く、優しくなる。

  悪かった。

  という声がもう一度聞こえては辛うじて首を振った。

  彼のせいではない。
  自分が弱かっただけだ。

  「‥‥ごめ‥‥なさ‥‥」

  なんとか音を紡ぐとそれは途切れ途切れになり、更に情けなさが上乗せされる。
  もう一度紡ぐと、喉の奥が小さく変な音が漏れた。

  「もう、いい。」

  土方は言った。
  もう、何も言うな、と。

  その間、彼はずっと優しく背をさすり続けてくれた。

  不思議なことに‥‥
  彼女の苦手な蝶々はその間、
  一切近付いてこなかった。



  蝶が苦手な彼女は花になど一切近付かない。
  それに彼女は元々花には興味がない。
  だから、彼女が望んでこんな所にくるはずがなかった。

  「近藤さんが折角誘ってくれたから。」

  だから彼女はここに来たのだと、情けない顔で教えてくれた。

  蓋を開けてみればなんとも呆れて物が言えなかった。

  という少女が近藤を敬愛しているのはよく分かっている。
  近藤だけではなく、仲間の全てを大切に思っているのは。
  だからそんな大切な人からの厚意を無にすることは出来ないというので、自分が苦手だというのにもかかわらずこんな所
  へやってきて、
  この、有様だ。

  馬鹿か――

  と一蹴してやりたかったけれど、そんなことを言えば少女はますます落ち込んでしまうのは分かっている――今の強かな
  とは違ってこの時はとても素直ないい子だったのだから――

  人の厚意というのは、自らを犠牲にしてまで応えるべきものではないのだ。
  と、彼はその時教えてやったけれど‥‥さてこれが今後生かされたかと言えば、ご存じの方はご存じだろう。



  「‥‥土方さん。」

  すたすたと通りを歩く彼には呼びかける。
  「なんだ?」
  とすぐに返事があった。
  控えめな声でも聞こえるのは、彼女の口が彼の耳元にあるせいだろう。
  結局、そのまま抱きかかえられたままだ。
  下ろしてくれ‥‥と言っても、彼は不機嫌そうな顔で、
  「ろくに足に力も入らねえんだから黙って担がれてろ。」
  と言って聞いてくれない。
  その通りかもしれないが‥‥なんというか‥‥これでは彼の迷惑になるような気がする。
  迷惑、というのは今さらかもしれないが。

  「で、なんだよ。」

  彼はこちらに視線も向けずに問いかける。
  視線は近藤を捜しているらしい。
  すぐ近くの団子屋だと言っていたのに‥‥彼はどこまで買いに行ってしまったんだろう?
  恐らくには美味しいものを食べさせてあげようと思ったに違いないのだが‥‥どうしてこうも、試衛館の連中はに甘
  いのだろうか。
  いや、そいつは自分もか。

  きゅと、背を抱くその手に少し力を入れてその温もりを確かめれば、はその、と控えめに口を開いた。

  「‥‥どうして‥‥私を見つけてくれたんですか?」

  「‥‥そりゃ‥‥」

  問いかけに、あれだけ蝶が集まってたからと土方は口を開きかけ、何故か止める。

  確かに一所に蝶が集まっているのが不思議に思って立ち止まったのは確かだけど、彼女を見つけたのは恐らく別の理由が
  あった。
  なんというか‥‥

  ふいと、土方は視線を前へと戻し、居心地悪そうな顔でぽつりと呟いた。

  「呼ばれた気がした。」
  「え?」

  呼ばれたような気がしたのだ。

  「おまえに‥‥呼ばれたような気がした。」

  小さな声で、
  必死に、
  呼ばれた気がした。

  「‥‥‥」

  は言葉に驚いて目を丸くする。
  どうしてそれを?と問いたげなそれに、もう一度視線を戻して気付いた。

  土方は、そっと、目を細めて笑った。

  「俺のこと、呼ばなかったか?」


  ――今になって、思う。

  咄嗟に彼の名前を呼んだのは。
  近藤でも沖田でもなく、彼の名前を呼んだのは。

  彼は――

  彼なら――

  何があっても、自分を見つけてくれると知っていたからなのだと。


  あの日あの時あの場所で、
 君だけが僕を見つけてくれた




  無意識に頼れる人。
  それが土方さんという人。