何も言わずに‥‥彼女は消えた。

  まるで、霧散する幻のように。
  忽然と。

  ただ一人‥‥自分をおいて‥‥消えた。



  「っ!」

  目を開けた瞬間、それが現実なのか夢なのか一瞬分からなかった。
  ただ、隣にあるはずの温もりがないと分かった瞬間、

  「!!」

  男は飛び起きていた。

  布団をはね除けて、転がるように廊下へと飛び出す。

  その時になって、朝になっているのだと漸く気付いた。
  朝ならばきっと彼女はそこにいる。
  そう思って、ばたばたと廊下を駆けていく。

  がらっと勝手場へ続く扉を開いた。

  そこに立っている女性は振り返って‥‥

  「おはようございます。」

  と微笑んでくれる‥‥はずだった。

  「‥‥なんで‥‥」

  しかし、そこに彼女の姿はない。
  いつもならば朝食の支度をしているその人がいないどころか、朝食の用意さえまだしていない。
  まるで、そんな用意をする人間などいないかのように‥‥

  「ど‥‥こだ‥‥」

  掠れた声が唇から漏れた。

  どくりどくりとこめかみが脈打っている。
  ひどい頭痛がした。
  目眩がした。

  「どこ‥‥だ‥‥」

  夢の続きを見ているのだろうか?

  彼女が消えてしまう夢。
  忽然と消えて‥‥自分が一人になってしまう夢。

  これは果たして、夢?

  夢の続き?
  いや、これは現実。
  現実。

  現実に‥‥彼女が‥‥

  いない?

  自分を残して、彼女が‥‥消えた?

  その瞬間、
  恐怖が男を襲った。
  言葉に出来ない‥‥恐怖だった。

  「っ!!」

  そして次の瞬間、まるで喚くかのように彼の者の名を呼ぶ。

  まるで壊れたかのように、

  「!!
  っ!!」

  求めるかのように、

  何度も。
  何度も呼ぶ。

  応えがない事に‥‥男の顔が歪んだ。

  このまま喉を掻ききって死んでしまいたいほどの絶望が男を襲った。

  世界が、
  闇の色に彩られ‥‥
  男は光を失った。


  「‥‥土方さん?」

  からら、と遠慮がちに引き戸が開く。

  途端、暗かった世界に一条の光が差し込んだ。

  眩しい‥‥と顔を覆ってそちらを見れば、勝手場から外へと続く扉が開かれていく。

  やがて、ちょこんと、顔が覗いた。

  「あ、起きたんですね?」

  琥珀色の瞳をそっと細めて、にこりを笑う。

  

  その人の名前を呼ぼうとしたのに、ひゅうと風の唸るような音だけが漏れて、音にならない。

  「すいません。
  外に野菜を採りに行ってて‥‥」
  まだ朝ご飯の用意も出来てないんですけど‥‥
  と言いながら彼女は中に入ってくると慌てて流しに野菜を置いて、泥で汚れた手を洗うと支度を始める。

  「ちょっと待っててくださいね‥‥いま――」

  すぐに用意を‥‥

  紡がれるはずの言葉は、男の強い抱擁で‥‥遮られた。

  一瞬何が起きたのか分からず、目をまん丸く見開けば、目の前に白い衣と肌の色が見える。
  抱きしめられている‥‥とその逞しい腕が背中に回っているのだから分かるのだけど、どうしてそうなっているのかが分
  からない。

  「あ‥‥の‥‥土方さん?」

  「突然‥‥消えるなって‥‥言ってるだろ‥‥」

  困惑した声に、咎めるような声が重なる。
  消えたなんて大袈裟なと思うけれど、その反論は口から零れる事はなかった。

  彼の声があまりに弱々しくて‥‥

  背中を抱く手が、かたかたと、震えているのが分かったから。

  それだけで――分かった。

  自惚れでも何でもない。

  「私が消えたら‥‥怖いと思った?」

  そっと慈しむように震える背中を抱きしめる。
  男はびくりと身体を震わせた。
  決して弱いところを見せない男は「誰が」と吐き捨てるかと思ったけれど‥‥

  「‥‥ああ‥‥」

  怖いと思ったと彼は言ってくれた。

  「おまえを失ったら‥‥俺は‥‥」

  声が不安で揺れる。
  言葉の先は、苦しげなうめきで消える。

  怖くて怖くて、たまらない――

  彼女を失ったら‥‥もう‥‥

  「っ」

  男はぎゅっと抱き潰すかのように一度強く抱き、しっかりと彼女がここにいる事を再度確かめると、

  「わっ!?」

  突然、彼女を抱き上げてすたすたと元来た道を戻る。

  「え、あれ?土方さん?」
  ちょっとこれはどういうことなのと訊ねると、男は怒ったような顔でこちらを見て、

  「勝手にいなくなった罰だ。」

  開けはなった襖からどかどかと寝所へと戻ると、些か乱暴に彼女を布団に沈める。

  そして、紫紺の瞳でしっかりと琥珀の瞳を縫い止めると、

  「‥‥今日は‥‥ずっと俺の傍にいろ。」

  と、男は命令し、帯をするりと解いた。

  そんな無茶な‥‥とは思った。
  だけどそんな不安げに見つめられて、
  求めるように、
  いや、縋るように触れられて‥‥無碍に断る事なんて、出来ない。

  仕方ないなぁ――

  「じゃあ、今日はずっとあなたの傍にいてあげるから。」

  慈愛に満ちた笑みを愛する夫へと向けると、その両手を伸ばして、包み込んであげる。

  恐怖からも、不安からも、
  全部の負の感情から彼を守ってあげるように腕で包み込んであげるから。

  絶対にこの手を離したりしないから。

  「‥‥私は、ここにいるから‥‥」

  私はここにいるから。
  だから、

  「もう‥‥怖がらないで‥‥」

  もう怯える必要はない――

  「っ」

  男の唇から震えた吐息と‥‥一粒、熱い滴が‥‥零れた。


 あなたは私の



  お互いにとってたった一人。