土方は紫煙を吐きながらいつもよりも更に難しい顔で、抜けるような青空を見た。
雲一つ無いそれは、なんだか悩みが一つも内容に見えて非常に腹が立つ――完全なる八つ当たりで申し訳ない。
というのも――ここ数日、彼女の様子がおかしいのだ。
彼女というのは文字の如く、土方の恋人のこと。
名を、雪村という。
前回、沖田に嫉妬故、暴挙に走らせた雪村千鶴の従姉妹である。
そのと土方が生徒と教師でありながら、彼女と彼氏であるという関係は‥‥勿論内緒だ。
知っているのもごく一部で、実はその中に教師も混じっているが何故か黙認されている。
二人の関係を暖かく見守ってくれているのか、それとも弱みとして握っているのかは分からない‥‥とりあえず考えると
胃が痛くなるので前者ということにしておこう。
土方にとっては多分最後の彼女になるだろう大事な大事な彼女。
そんな彼女が‥‥最近変なのだ。
どこが、と聞かれると多分他の人間は分からないだろう。
だが、彼氏である自分にはよく分かる。
なんというか、彼女から、少し距離を感じるのだ。
いつもは放課後になると彼の仕事部屋でもある資料室に入り浸っていたというのに、ここ最近は試験勉強で忙しいといっ
て訪れなくなったし‥‥まあ、来週から中間テストがあるのは事実だが。
それに、話しかけてもいつもよりも早く話題を切り上げてそそくさと行ってしまう。
視線もちょっとしか合わせてくれない。
メールの返事も素っ気なかった。
「‥‥俺、何かしたか?」
明らかに、自分を避けている‥‥というのが分かる。
何かしたかと思い返してみたが、残念ながら思いつかない。
先週、雪崩れ込むようにセックスに及ぼうとしたのがいけなかっただろうか?
いや、あの時ちゃんと止めたじゃないか。
ものすごく、ものすごく残念だったが、止めたじゃないか。
怒らせるほどの事はしていない‥‥‥‥はずだ。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
土方はあれこれと自分の行動を思い返しながら、煙草のフィルターをぎりっと噛みつぶす。
やがてぼんやりと空を見つめた後、
「考えてたって埒があかねえな。」
いつの間にか短くなった煙草をもみ消すと、ふわりと紫煙を振り払いながら部屋を出た。
分からなければ‥‥聞くのが一番だ。
「‥‥‥‥‥」
「ああ、土方先生、何の御用ですか?」
教室に到着するや否や、笑顔の出迎えに心が折れそうになった。
迎えてくれたのは土方の天敵‥‥沖田総司である。
ああくそ、なんでこのタイミングでてめぇが出てくるんだよと内心で吐き捨てながら、ちらっと教室内に視線をやる。
窓際の一番後ろ。
そこがの席。
彼女はぼんやりと頬杖をつき、窓の外を見つめている。
土方が来たことには勿論気付いていない。
「雪村に用があるんだが‥‥」
「?」
沖田はくるっと振り返って、の方を見て、満面の笑顔を戻す。
「今いません。」
「嘘吐け!そこにいるじゃねえか!!」
「あれは幻覚です。
土方先生、目まで悪くなっちゃったんですか?」
「目が悪ぃのはてめえだ!」
「嫌だな、僕は裸眼で視力1.5です。」
「んなこと知らねぇよ!つか知りたくもねえよ!
いいからを呼べって言ってんだろ!話があるんだよ!」
一気にまくし立て、ぜえはあと肩で息をする。
こんなものは挨拶代わりとでも言いたげな沖田はつまんないの、と言いたげに肩を竦めた。
そうしてポケットに手を突っ込むとだらだらとした足取りでに近付く。
「‥‥‥‥」
呼びかけには振り返った‥‥らしい。
しかし、土方からは沖田の背中しか見えない。
その見えない所で何をしているのか、というのは分からず、
「‥‥‥‥」
訝しげな表情で見守っていると沖田がポケットに手を突っ込んだまま、戻ってきた。
その時にははまた、窓の外に視線を戻している。
沖田はてくてくと土方の前に戻ると、
「今日は午後から雨が降るそうですよ。」
「なんの話をしたんだ、なんの話を‥‥」
「天気の話に決まってるじゃないですか。
土方先生、頭大丈夫ですか?」
「てめぇが大丈夫かってんだよ!
なんで天気の話してんだ!」
「んー、あんまり天気がいいからかな?」
「あーもういい!」
てめえに頼んだ俺が馬鹿だったと土方は言い捨て、彼を押しのけてずかずかと教室へと足を踏み入れた。
そうして、一直線にの元へとやってくると‥‥
「おい、雪村。」
呼びかけにびくっとの肩が震えた。
驚いて振り返るは男を認めた瞬間、身体を強ばらせた。
空気が張りつめ、ああ、やっぱり自分が警戒されているのだと改めて再認識した男は、苦い顔で口を開いた。
「話がある。
今日、授業が終わったら‥‥」
資料室に来い、とそう土方が告げる前に、
キーンコーンカーンコーン。
無情なるチャイムの音が、タイムリミットを告げた。
突然腕を引っ張られ、引きずり込まれる。
以前痴漢に遭ったときに分かったのだが、突然の事に人間というのは咄嗟に反応できない。
こと、身体の一部に触れられるとか、そういう事は悲鳴どころか声さえ出ないものだ。
多分‥‥恐怖よりもショックが大きいせい。
事態に気付いた時には細い横道に連れ込まれていて、
「っ‥‥」
このままでは殺られる‥‥と思ったは拳を握りしめ、肘で思い切り相手の鳩尾を叩こうとした。
痴漢を撃退しようとしたのである。
しかし、
「落ち着け!俺だ俺っ!!」
身動きできないように両手ごと身体を拘束され、絶望するよりも先に知っている声が飛んできては目を丸くした。
「‥‥土方‥‥さん?」
驚いて振り返ると、見慣れたその人の姿があった。
残念ながら、今のにとっては変質者並に会いたくない人である。
「悪いな、手荒な真似しちまって。」
まるで変質者みたいな行動ではあるが、これでも歴とした彼氏である‥‥
「ストーカーってみんなそう言うんですよ。思いこみが激しいからですかね。」
なんて、この場に沖田がいたらにっこりと笑って彼を変質者扱いしたことだろう。
いなくて本当に良かった。
手を離すとは小さく「いえ」と頭を振った。
視線は落としたまま。
綺麗な琥珀が見られないのは‥‥ひどく、辛いと思った。
「‥‥忙しかったのか?」
「‥‥いえ‥‥別に。」
「じゃあ、なんで放課後俺の所に来ないで帰った?」
それは‥‥とは口ごもる。
チャイムの後、ものすごく変な顔をして、まくし立てるように「とにかく放課後資料室に来い」とだけ言って去っていっ
たのだ。
忘れていたわけではない。
むしろ、忘れていたかった。
そうしたら、忘れていましたすいません、と謝ってそれで終わるはずなのに。
なのに、待たされただろう彼の事を思うと心苦しくて、忘れていたなんてあっけらかんとは言えなかった。
ただ、ごめんなさいと小さく謝ることだけしか。
「‥‥俺を、避けてるだろ?」
単刀直入な問いかけに、は唇を噛む。
自分では細心の注意を払ったつもりだった。
気付かれないように心掛けたつもりだった。
でも‥‥以前とは違うその変化に、彼が気付かないわけがない。
地面を、悲しそうな目で睨み付ける彼女に気付き、男はそっと溜息交じりに呟いた。
「俺が‥‥嫌いになったか?」
乙女心というのは変わりやすい。
勿論がそんなに移り気な人だとは思わないけれど、それでも人の心というのはいつどこで変わってしまうか分からない。
もしかしたら自分の事を嫌いになってしまう何かがあったのかもしれない。
もしくは‥‥他に好きな男が出来た、とか。
「‥‥それはあんまり聞きたくねえな。」
彼女の口から「他に好きな人が出来た」と聞かされて正気を保っている自信はない。
激情のままに彼女を閉じこめてしまいそうだ。
そうして、自分以外が見れないようにして‥‥
自分以外を見ないように‥‥
しかし、の口からは「そうじゃない」という否定の声が挙がった。
「土方さんを嫌いになるなんて‥‥絶対にありません。
死んでも‥‥ない。」
視線を落としたままの言葉だが、そんな彼女の永遠とも思える愛の告白に土方の気持ちは一気に浮上した。
我ながら単純だと思う。
それじゃ、と自分を笑い飛ばしながら土方は彼女の視線の先を追いかけるように少し身を屈めた。
視線を合わせると、琥珀色が苦しそうに細められた。
「なんで‥‥俺を避ける?」
そんな顔をさせる何を自分はしたというんだろう?
彼女を傷つけることは極力していないつもりだった。
言葉だって、行動だって‥‥彼女を苦しめたり傷つけたりする事はしていないつもりだ。
多少、恥ずかしい事を強いている自覚はあるけど‥‥でも、それだって彼女は喜んでくれている‥‥はずだ、そうに違いない。
いや、脱線した。
とにかく、彼女を悲しませることはしていない。
断じて。
するとは寂しげな顔のまま、こう告げた。
「このまま好きになっても‥‥一生一緒にはいられないんだなぁって分かったから。
だから、少しずつ離れた方がいいのかと思って‥‥」
「一生一緒にいられない」という言葉を聞いて、彼女が「自分と一生一緒にいる」つもりだったのだと知って喜んだ。
しかしだ、その後が気に入らない。
「一生一緒にいられないから、少しずつ離れた方がいいのかと思って」
それはどういう事だ?
まさか自分が彼女にそれらしい事を言ったというのか?
そんな馬鹿な。
将来の事は‥‥ちょっと焦ってると思われても情けないので、口にはしていない。
それにまだ若い彼女を今の内から縛り付けるのも忍びないと思っていた。
だから何も言っていないが、許されるなら今すぐにでも「結婚の約束」とやらを取り付けたいくらいだ。
そうじゃないと悪い虫がつきそうで‥‥
また、脱線した。
そうじゃなくて、
「‥‥俺がそんな事を言ったか?」
一生一緒にいられないと、それに近いことでも彼女に言っただろうかと訊ねると、はふるっと頭を振った。
それを直接、彼の口から聞いたことはない。
ただ、
「総司に‥‥言ったんですよね?」
「なにを?」
「奥さんにするなら‥‥料理が出来る人がいいって‥‥」
「‥‥」
そういえば、そんなことを言ったような言わなかったような。
しまったと顔を顰める彼に、はほらやっぱりと傷ついたような顔になる。
「私‥‥料理の腕前はからっきしなので‥‥」
味付けはそこそこ自信はあるのだけど、とにかく見た目が悪い。
良く言えば豪快。
悪く言えば雑。
こと、お菓子に関してはその姿さえも変身させてしまえるほどの才能を持つ――嬉しくない。
本人は一生懸命やっているのに、どこで化学変化が起こるのだろう。
まあ、見た目は多少悪くても、味は、良いのだ。
それがまた不思議。
普段は女の子らしさの欠片もなくていいと思っているが‥‥そこだけは彼女も譲れないようである。
やはり手料理を好きな男の人の為に作って喜んで貰う、というのは女の子の夢なのだ。
「だから‥‥土方先生の、奥さんにはなれないなぁという事を実感したわけで‥‥
いや別に、私がなれるなんて思っちゃいませんよ!?
なれたらいいなぁと思ったりしたことは‥‥確か‥‥なんだけど‥‥」
そんなの夢のまた夢。
だから、別に落ち込んでなんかいない。
分かってる。
あ、いや、でもこれって落ち込んでるよな。
落ち込んだって彼には迷惑だって分かってるのにな。
「‥‥わ、忘れてください。」
は、さっきのはなし、聞かなかった事にして、と言い、ふにゃっと笑みを浮かべた。
「私もう、平気。
大丈夫。」
「‥‥。」
気遣うような眼差しにはそんな顔しないで!と茶化すように言った。
「そんなに眉間に皺寄せると定着しますよ!」
「‥‥‥」
更に眉間のそれが濃くなって、ええと、とは言いよどむ。
「あ、嘘!今の嘘!
多分大丈夫!ほら伸ばしたら定着しないし!」
「‥‥‥」
「‥‥ええと‥‥その‥‥」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
無言だ、果てしなく無言で、睨まれている。
どうしようかと視線をきょろきょろと彷徨わせていると、ふっと、小さな溜息が聞こえた。
続いて、
「‥‥そいつは、俺の失言だ。」
溜息交じりの謝罪。
はきょとんとした顔を上げた。
そうすると怒ったような顔をするその人と視線がぶつかる。
ああ、やっぱり怒らせたかと表情を曇らせると、ちがう、と苦笑を向けられた。
「俺が、悪かった。」
すまん、と謝られては驚く。
どうして謝られるのかがさっぱり分からなかった。
「俺の言葉が足りなかった。」
確かに、奥さんにするならどちらがいいかと聞かれたら、料理が下手よりも上手な方が良い。
それは認める。
でも、
「別に俺は料理の上手い奥さんが欲しいわけじゃねえ。」
料理と結婚するわけではないのだ。
「多少料理が下手だろうが、掃除が苦手だろうが、そんなのはどうだっていいんだよ。」
大事なのは、
「相手が本当に好きな女って事だ。」
奥さんになってくれるなら、
自分が誰より好きだと思う人。
つまり、
と、真っ直ぐに彼女を見つめて、心の中でだけ呟く。
――おまえ――
「‥‥土方‥‥さん‥‥」
真っ直ぐに熱っぽい眼差しで見つめられ、はどきっとした。
そんな求めるような眼差しで、しかもそんな事を言われたら、誤解してしまうじゃないか。
彼の言う「本当に好きな女」というのが自分なのではないかと。
それを口にしたら自惚れも良いところだから、言わない。
言ってくれれば土方は甘ったるい笑みで肯定してくれただろうし、彼にとってはその先の約束をするいい機会だったとい
うのに。
「そう‥‥ですか‥‥」
はくしゃっと表情を歪ませて、不器用な笑みを浮かべた。
「ごめんなさい‥‥私の勘違い。」
「いや、おまえが謝ることじゃねえよ。」
気にするな、と頭をぽんと優しく撫でた。
優しいその手つきにはそうっと擽ったそうに、どこか嬉しそうに微笑む。
もう‥‥大丈夫のようだ。
ほっと土方は溜息を吐き、しかし、と顔を顰めた。
「あの野郎‥‥チョコ兵器の代わりになんてえげつない攻撃をしかけてきやがんだ。」
やっぱり自分が一番でかい報復を食らっている気がする。
土方のアキレス腱がであると見越しての攻撃だ。
激辛チョコを食べてトリップするより何倍も心臓に悪い‥‥上に、心が痛んだ。
大人しくあの時食べていれば良かった。
そう溜息を零す土方には首を傾げて何のこと?と聞いてきた。
「いや、おまえが気にすることじゃねえよ。」
名残惜しげに手を離すと、土方は一歩を踏みだした。
それに、迷わずがついてくる。
当たり前のように隣に並んでくれる彼女に笑みを向けながら、月明かりに照らされた夜道を歩いた。
「そう言われると逆に気になります。」
「いいんだよ。これは、知らなくて。」
「隠されると勝手に想像しますよ?」
「すんな。俺は潔白だ。」
「なにそれ‥‥?」
「だから気にすんなってんだよ。」
いいから、と土方は言い、にやっとその口元に意地の悪い笑みを浮かべた。
「おまえが気にするのは今日、これからのことだけで十分だ。」
「‥‥これから‥‥って、なに?」
は訳が分からないと言いたげに首を捻る。
そりゃそうだろう。
それは男の中でだけ今、瞬時に立てられた計画だったから。
「先週、拒んでくれた分、今日たっぷり返して貰う。」
「‥‥先週‥‥って‥‥あっ!?」
先週拒んだ「なにか」に思い当たったは大きな声を上げた。
それって‥‥と眉根を寄せて、困ったような顔になる彼女に‥‥男の加虐が煽られた。
「幸い、明日は休みだし?」
「‥‥‥で、でもっ‥‥明日は勉強‥‥」
「俺が教えてやるよ。
手取り足取り‥‥」
「ひ、土方さんが言うと卑猥にしか聞こえない!」
「そう聞こえるように言ってる。」
「んなっ!?」
「あと、そういう意味で言ってる。
ってことで、今日も明日もおまえが知らねえような大人のアソビってのを教えてやる。」
「っ!!?」
時間はたっぷりあるからなという言葉にガンッと頭でも殴られたかのようなショックを受けた顔が、見る見るうちに真っ
赤になっていく。
「ってことで、観念して俺に抱かれろ。」
それは甘い死の宣告のように聞こえた。
甘い報復
「ちっ、こじれなかったか‥‥」(総司)
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