2011年2月14日。
入社一年目にして、その人のモテっぷりを目の当たりにした。

いや、確かに、
土方部長がモテるのは知ってるよ?
顔の良さと言い、あの若さで部長職に上り詰めた有能さと言い、強面に見えて案外優しいというギャップといい、モテないわけがないって。
年上から年下、そればかりか社外にも彼のファンがいるというのは良く知ってる。
知ってるけど、まさか、ここまでとは思わない。

「‥‥ええと‥‥」

デスクの上。
資料やパソコンを埋め尽くしているのは大量のプレゼント。
ピンクや赤でラッピングされたそれらは自己主張しあいながら山を築いていた。
そう、比喩じゃなく、天井に届くくらいに。

これ、山の頂上に乗せた人ってすごいなぁ――

呆気に取られるあまりに場違いな事を考える私は、ふわりと香る甘ったるいそれに、酔いそうになった。これだけチョコが多いんだから当たり前、だと思う。
これを食べる部長は胸焼けするだろうな‥‥寝る前のチョコはニキビの元だから気を付けてほしい。あり得ないけど、さ。

じわりと背中に、シルバーのラッピングを隠したけれど、誰にも見つかるはずもない。見咎められるはずも、ない。



「意気地なし」

いらっしゃいませーと事務的に挨拶をするコンビニの店員の声を聞きながら、私は人の少ない夜のコンビニで今夜の晩ご飯を漁っていた。
この時間ではもうほとんどお弁当もない。
それに加えて私自身お腹も空いていないので、適当にパンの一つでも買っておくかとパンコーナーの棚に回って適当に食べれそうなものを突っ込んで、明日の朝のヨーグルトが欲しいからと思いデザートコーナーへと回る。
林檎入りのが一番食べやすいのでそれを買っておく。
その横に、さりげなく、かつアピールしている茶色一色のそれを見つけて、私は苦笑した。
あと、数時間でそのイベントだって終わるっていうのに、まるで一つだけ売れ残りのように残っていたのはチョコムースのケーキだった。
見るからに甘そう。
そして‥‥見るからに寂しそう。
まるで‥‥私の鞄の中のそれ、と同じだと思った。

「意気地なし」

5時間も並んで苦労して買ったレアなチョコ。
それを渡せなかったと言うと、千はあんぐりと口を開けて呆れに呆れた後、そう言いやがった。
意気地なし――

まあ、違わないなぁと思う。
私は意気地なしだ。
ある種芸術‥‥と言わんばかりのチョコレートの山を前にして、私は怖じ気づいたのだから。
彼氏いない歴二十年‥‥という私が挑むには、あまりに難易度の高い山だと、その時改めて思い知らされた。
私だけじゃない。
彼に想いを寄せているのは‥‥そう思うと、渡す勇気が萎んでしまったのだ。

勿論、渡した所で何かがあるとは思ってない。
そこまでポジティブでもなければナルシストでもない。
なんせ相手は我が社でbPのイケメン社員だ。
しかも、一部署の長。
高嶺の花も高嶺の花‥‥手を伸ばした所で遥か数百メートル上の、雲の上の存在、と私は認識している。
それにひきかえ私は課も違う新入社員。
接点はほぼ、なく、話した事も片手で数えられる程度。
これでロマンスが起こるはずもない。
チョコを手渡しなんか出来たら奇跡。
手渡しできなくても彼の手元に渡ったなら万々歳。
恐らく彼の手元にさえ届かなかっただろう。

「‥‥」
私はそっと鞄を見遣る。鞄の中に、ひっそりと眠ってしまっているそれを。
ごめんな。
きっと私じゃなく、他の人に買ってもらえたなら‥‥好きな人の手に渡っただろうに。私で、ごめん。
でも後でちゃんと美味しく食べてあげるからな、なんて、私は馬鹿みたいにチョコに謝って‥‥それから売れ残りのチョコケーキを手に取った。
なんとなく、これはそのまま廃棄されてしまうような気がして、放っておけなかった。

ケーキをカゴの中に入れて私はくるっとレジの方へと向かおうと方向転換をする。その時不意に、
「夜食か?」
なんて声を掛けられ、私は聞き覚えのある声に「え」と口の中で小さく声を漏らした。
この時になって隣に人が来ている事に気付いたんだから私はどんだけぼーっとしていたんだろう。
でもそんなことより何より、ちょっと待て、この声って‥‥まさか‥‥
「‥‥‥‥‥‥」
いやいやまさかと自分の考えをうち消しながら、それでも恐る恐ると言う風に顔を向けてしまうのは少なからず期待をしていたせいだろうか。
ゆっくりと向ける視線の先に、黒いコートの肩口。
その先で揺れるさらさらの、髪。それからその先に‥‥モデルですか?って綺麗に整った顔があって‥‥
「ひ‥‥土方、部長‥‥?」
思わず質問口調になった私に、彼は意地悪く目を細めて笑った。
「それ以外に誰がいるんだよ。」
いや、あんたがここにいること自体が信じられないんだよ、と心の中でだけ突っ込んだ。

「え?な、なんでこんな所に?」
予想外すぎる展開に、思わず大声を出さなかった私を誉めてほしい。
でもそれでも、なんで、どうして、という疑問は止まってくれなくて口にすれば、彼はひょいと肩を竦めながら、
「夕飯の買い物ってとこだ。」
と教えてくれる。
部長も残業だったってことか。お疲れさまです。
いやしかし、まさかこんな所で会うとは思わなかったぞ‥‥だってここ、会社の近くでもないし。
私は家の近くだからってんで利用してるけど。
あれ、もしかしたら部長ってこのあたりの人?
そりゃさらに驚き。そしてものすごい偶然だ。

「ったく、大したもん残ってねえなぁ‥‥」
「この時間はもうお弁当も廃棄されてる時間ですからね。」
土方さんの独り言に苦笑を浮かべる。彼もだよなと呟いて、それから物色するのを止めた。
「あれ、買わないんですか?」
「いい‥‥ピザでもとる。」
「流石部長。一人ピザって豪華ですね‥‥でも、この時間のピザって明日の胃にキません?」
「いいんだよ、どうせ明日は休みだ。」
明日使い物にならなくても平気だろ‥‥という彼に私はなるほどと納得してしまった。
土方さんは結局カゴを持ってきたもののそれは使わずに戻し、私はその後ろについていきながらレジへと向かった。
買い物がないようなのでこれでお別れなのかと思うとちょっと寂しい。
でも何故か彼は手に何も持っていないというその状態で私の横に並んだ。
そうして私の買った物を見て、ちょっとだけ笑う。
「チョコケーキもピザと同じようなもんだろ‥‥」
「‥‥確かに。」
袋の中に収められるそれを見送りながら私は頷く。
「女って、甘いもんは別腹って言うからなぁ。」
「胃が二つあるんですよー羨ましいでしょ?」
私は甘いものが好きじゃないので残念な事に一個だけどな‥‥と心の中でだけ告げる。
じゃあなんで買うんだ?とか聞かれるとちょっと答え辛い。まさか私と同じで寂しそうだったから、なんて言えるわけもない。
私が会計を終えると隣に立っていた土方さんは店員に煙草の銘柄を伝えた。
どうやら煙草が欲しかったらしい。
待っててくれた‥‥とかそういうんじゃなかったのか、当然だけど。
一方の私は土方さんが会計を終えるのを待って、外に出た。
ちゃんとさよならと言っておきたかったから。

「それじゃ‥‥」
コンビニの外に出て、少し歩いた所で私は切り出す。
切り出すのがとても辛かった‥‥といえば大袈裟だと思われるかな。
でも、彼と話を出来る機会なんて滅多になくて‥‥おまけに彼とふたりきりになれる機会だって、ない。
明日になればまた彼は遠い存在になり、声を掛ける事は愚か、顔を見る事だって出来なくなる‥‥そう思うと、離れがたくて当然だ。
「なあ、雪村。」
そんな私を、彼は呼び止める。
『雪村』
と呼ばれた事にまず驚いた。
どうして知っているのか‥‥そりゃ知ってるからだという当たり前な答えが返ってくるに違いない。
でも、どうして知っているのか。
私と彼は部署が違う。そして私と彼は片手ほどしか話をした事がない。
特に印象に残る事もしていないから覚えているはずもない。
新人A‥‥とでも認識されているのが関の山だと思っていた。それが、名字を覚えてくれている。
驚きというよりも感動にさえ近い。名字くらいでそんなに喜ぶなんて重症かも知れないと思っていると彼は一瞬言おうか言うまいか迷って、後に、言った。
「おまえ‥‥今から飯、なんだよな?」
私の買い物を見ていたのだから分かっているだろう。
貧相で申し訳ないけれどあれが私の今夜の夕飯だ。
ピザ以上に、胃にキそうなチョコケーキつきで。
「‥‥あ、はい。」
質問の意図が分からない。分からないけど頷いておく。
すると彼はそうかと言った後、じゃあ、と口を開いて、

「良かったら、俺の家で一緒に食わねえか?」

なんて、これまた度肝を抜くような事をいうのだからどうすればいいのさ、私は。



土方さんの家は驚く事に私の家の近くだった。
とはいっても、住んでいるマンションの豪華さは全く違う。
なんだこれ、綺麗だぞ、新しいぞ、高そうなんですけど‥‥っていう外観のマンションは、エントランスからして気後れしてしまいそうな作りをしていた。
エレベーターは広くて、ガラスも鏡もぴっかぴかだ。
触ったらブザーとか鳴りそうで、私はガラスからも鏡からも離れた所で立っていた。
そのド緊張するエレベーターに乗って向かった先は7階。
そこの角部屋が土方さんのお家。因みに角部屋なので他より、広い。いい暮らしー

「入れ。」
と促され、私は玄関口でなんでついてきてしまったのだろうかと今更のように後悔していた。
今日はなんだか色々おかしい。
あの芸術的なチョコの山を見た時からなんか変だった。
偶然彼とコンビニで出会って、ご飯に誘って貰って、しかもそれが彼の部屋、だ。
なにこれ、夢?
夢なの?
夢だからあの時何も考えずに「うん」なんて言っちゃったの?
「‥‥いてぇ‥‥」
思わず頬を抓る。痛かった。
夢じゃないらしい。
「何やってんだ、おまえ。」
玄関口で立ちつくしたまま頬なんぞ抓ってたらそりゃ怪訝にも思うだろう。

「馬鹿な事やってねえでとっととあがれ。」
という言葉を残して廊下の先に消えてしまった彼に、私は少しの間帰ろうかどうしようか悩んだ後、結局靴を脱いで上がらせてもらう事にした。
「何が良い?」
「土方さんの好きなものでいいですよ?」
マジで取るつもりだったのか、この人。
そしてマジで私と食うつもりだ‥‥
チラシを差し出した土方さんはそうか、と呟くと、携帯を片手にキッチンの方へと歩いて行ってしまった。
割りとよく利用する店なのか、電話番号は覚えているらしい。そしてメニューも覚えている、らしい。
結局彼が選んだのは無難なマルゲリータ。
そんなに胃にもこない優しいトッピングだ。
ピザが来るまで20分だという、その間に土方さんはコーヒーを入れてくれて座るように勧めてくれた。
因みに土方家のソファはふっかふかだ。カーペットも同じくふっかふかのふわふわなので、どこも彼処も座るのに緊張する。
「‥‥おい、そんな緊張する事ぁねえだろ。」
「でも、ですね。」
結局選んだのはカーペットの方で、でも、私は正座だ。
背筋もまっすぐ伸びて、とっても姿勢がいい。良すぎるくらい。
私が緊張しまくってるのは一目瞭然。

「別に、取って食ったりなんかしねえぞ。」

その辺の分別はついてる‥‥とかいう台詞に「ん?」と違和感を覚えて私は首を捻った。
土方さんが私を食べたりしないと言うのは分かっている。そんな変わった趣向の持ち主じゃない事くらい。
でもなんだ、その後の「分別はついてる」ってのは。
いやいや、あなたは分別ついた大人です。分かってます。
分かってますけど、え?それって‥‥あれ?もしかして「それ」って「そういう意味」?

そしてこの時になって私はここが男性の家、しかも一人暮らし、時間は深夜。
そんな時間に一応女で、一応大人でもある自分がやって来ている‥‥という自体に気付く。
間違いがあってもおかしくない状況‥‥‥いや、ないよ。
だって、私と土方さんだ。あり得ない。

「いや‥‥私は、このカーペットが高そうなのでびくびくしてただけで‥‥」
むしろ言われるまで気付かなかったくらいで‥‥私は身の危険を感じて緊張していたわけではない、と告げる。
そうすると土方さんはそっちの方が考えてなかった、というように、目を丸くして呆気に取られた顔になった。
私の事をしばらくその驚いた顔で見て、それから、
「そ、そうか‥‥」
気まずそうに視線を逸らしてしまった。
横顔が少し、赤く染まっているような気がする。
ちょっと‥‥可愛いとか思ってしまった。

「あ‥‥ところで、ケーキ‥‥冷やしておかなくて大丈夫か?」
気を取り直すように咳払いをして、土方さんは私の手に持っている袋に目をやる。
夏場じゃないから平気だろう‥‥とは思う。
でもまあ、これ今日中に食べておかないとまずいよな。
賞味期限今日だったし‥‥
「‥‥あ、じゃあ、私先に食べときます。」
時計を見るとピザが来るまではまだ時間がある。
「え?先に食うのか?」
「後口ならピザの方が良いです。」
顔を顰める土方さんに私は苦笑で告げた。
元より甘いものは得意じゃない私にとっては甘ったるいのが後に残ってしまうよりはトマトソースの方が良い。
ただ申し訳ないのは彼よりも先に、食べてしまう事だ。
「お先に、いいですか?」
ピザを待ってからでもいいんだけど、折角来たピザを前にしてケーキっていうのも失礼だ。
訊ねると彼は好きにしろと言わんばかりに手を振った。
お言葉に甘えてテーブルの上に袋から取りだしたケーキを乗せる。
うん、甘そうだ。
胸焼けしそう‥‥

「いただきます。」
手を合わせてプラスチックの小さなスプーンで掬って、一口食べてみる。
ありがたくないことに‥‥めちゃくちゃ甘かった。
ムースもスポンジも全部、甘かった。
絶対胸焼けする。
「‥‥なんで‥‥チョコって甘いんでしょうね‥‥」
つい恨み言のような言葉を零すと土方さんは笑った。
「なんだ?苦手なのに買ったのか?」
「‥‥まあ、得意ではないですね‥‥」
だって甘いし、という呟きに彼は確かにと同意を示した。
「俺も苦手じゃねえけど得意じゃねえな。」
「得意じゃなかったら‥‥やっぱり、あのチョコの山って消費するの大変ですよねー」
チョコ好きの人だって嫌になるくらいの量だったと言えば彼の苦笑は更に深くなった。
まあな、と若干疲れたような顔で溜息交じりに言う彼は‥‥あのチョコを有り難いけれど正直迷惑だと言っているようにも見える。
迷惑、か。
だよね、迷惑だよな。あの量じゃ。
そして私はその迷惑な一人になりかねなかった‥‥というわけだ。

――やっぱり、渡さなくて良かった、と思う。

スプーンを握る手に何故か力を込めながら私はほっと安堵した。
鞄の中に眠っているあのチョコは彼に渡さなくて良かったんだ。
彼の迷惑になってしまうのは嫌だ。だから、渡さなくて良かった。
良かったじゃないか、迷惑な女にならなくて‥‥
良かった。
良かった、と思うのに、私の胸の奥ではこの甘ったるくて吐き気さえ感じるチョコのようにどろりとした何かが詰まっている気がした。
気持ち悪かった。なんていうか‥‥すごく気持ち悪くて、吐きそうだった。
吐きそうなほど甘かったっけ?

そんな事を思いながらスプーンでざくっと甘いムースを突き刺すように掬い上げる。
忌々しいほど甘いそれを睨み付ける私に、その時、声が掛かった。

「なあ、雪村。」

また、名字を呼ばれた。
おい、でも、おまえ、でもなく、私のちゃんとした名字。
土方さんってもしかして全社員の名前でも覚えているんだろうか‥‥なんて考えながら顔を向ける。
すると私を真っ直ぐに見ていたその人とがつんと視線がぶつかった。
ぶつかる、というのに相応しい、強い、瞳で、

「おまえ‥‥今日、俺に渡す物があったんじゃねえか?」

彼は訊ねる。

どきり、と私の胸が強く、打った。
どきどきと、その鼓動は早く、私を急き立てるように続く。
真っ直ぐこちらに向けられる視線に縫い止められてしまったかのようで‥‥逸らす事が出来ない。

どうして、なんで、そんなことを?

スプーンを宙に浮かせたまま、私は凍り付いた。
まるでとんでもない罪を暴かれている気分になった。
彼に『それ』を渡そうとした事が‥‥大罪かのように感じられる。
罪なのは私が身の程知らずだったせい、か。
それとも‥‥意気地がなかった‥‥せい?

「‥‥な、んの‥‥こと?」
「昼近く。来てただろ?」
「っ」
「銀色の包み持って‥‥」
「‥‥あ、れは‥‥」
「今日は2月14日だよな?」
あともう少しで終わりだが、と彼は腕時計に一度視線を落とす。
その瞬間に視線を逸らしてしまえば良かったのに一瞬反応に遅れてしまった私は再度向けられた眼差しに再び囚われる。

「おまえが持ってたのも、チョコ、だろ?」

問いかけ、というより確認に近しい言葉にぎくりと身体が強ばる。
彼はその反応を見て笑みを深くすると、言葉を続けて私を更に追いつめた。

「俺に、だろ?」

さすが、自分がモテてるって事を自覚している人はすごい‥‥
いや、確かにその通りなんだけど、そんな自信たっぷりに自分にチョコを持ってきたんだろう?なんて聞けないよ普通。
これを勘違い男がやってたら笑い飛ばしてやるのに、この人が言うんだから素直に頷きたくなるから不思議だ。
でも、

「ち、ちがいますっ」

にやりと勝ち誇ったような眼差しに、私をひねくれ者にさせる。
好きで好きで堪らないくせに、違うと私に否定をさせる。

「あれは‥‥別の人に持っていったもので‥‥」
私の否定に彼の双眸が不満げに細められた。
なんでそんな顔されなくちゃいけないのさ‥‥私が誰にチョコをあげたって、いいじゃないか。
土方さんにあげなくたって‥‥いいじゃないか。
「嘘だな。」
まるで決めつけるみたいに言い捨てられて私の肩はまた震える。
「うそ、じゃないです‥‥」
「嘘だ。」
「本当です‥‥や、山口さんに持っていこうとしたんです。」
二つ上の先輩の山口さんは、別の課でありながら私の面倒を色々見てくれる先輩だった。
日頃の感謝の気持ちを篭めて、彼に渡したっておかしくない。だから。

「――嘘だ。」

ぴしゃん。
と声が否定する。
凛とした声が私の迷う空気をはね除けた。
気圧されたように、私の言葉は勢いを無くし‥‥ついでに、視線は怯えたように揺れる。
「う、うそじゃ‥‥」
「いいや、嘘だ。」
「本当ですっ」
「嘘だ。」
「な、何を根拠にっ――」

私の名字を知っていても私の気持ちなんか知らない癖に。
私が誰を想って、誰にあれを用意したかなんて知らない癖に。
なんでそんな決めつけるみたいに言うのか。

噛みつくような問いかけに、彼はふっと、空気を漏らすようにして、笑った。
それは驚くくらいに優しくて‥‥甘くて‥‥見た事がないくらいに色っぽい表情で‥‥


「そいつは、俺の願望だからだ――」



『雪村君。突然で悪いけれど異動だ』
バレンタインから三日が経った2月17日。
上司に呼びつけられて突然そんな事を言われた。
何も分からないまま、差し出された書類を見て私は呆然とする。
呆然として動けずにいるとその人の部下である山崎さんがやって来て、魂の抜けてしまった私の荷物と私自身とを異動先へと連行していった。


異動して早々、コピーをしてきてくれと頼まれて私は一人コピー室で延々と作業をしていた。
ただ黙々と同じ作業をこなすのは私に考える時間と言うのをくれる。
突然の事で追いつかない頭は整理する時間を求めていた‥‥とはいっても、いくら考えても整理なんか出来るわけもない。
いきなりの異動。
しかも、あの人の下に就く事になる‥‥なんて思いもしなかった。
いやいやいや、それも思いもしなかったけどそれ以上にぶっ飛んだ事があったじゃないか。
始まりは金曜日の夜からだ。
そう、あの夜から何かがおかしくなったんだ。
チョコを渡せずに帰ってきて、ばったりあの人と会って、家に呼ばれて、ピザ取って、チョコの事を聞かれて、それから、それから‥‥
「だめだっ!!」
チャイムが鳴ってピザが到着した後の事は思い出せない。いや、思い出したくない。
思わず独り言を呟いて、がばっとコピー機に縋り付く。
あまりの出来事に頭が考える事を拒否した。
あれから、日曜日も色々考えてみたけど、一向に整理がつかない。
なんだか夢みたいな事ばっかりで‥‥っていうか、これ、夢じゃない?

「夢だって言われる方が逆に納得できるんだけど!!」
独り言が多い人って寂しい人らしいんだけど、私そうかもしれない。

「何が納得出来るって?」

これまた前触れもなく掛けられた声にぎっくーんと私はその場に飛び上がって驚く。
慌てて振り返れば、入口にその人が立っているのが目に飛び込んできた。
いつ見てもきっちりと決まった、どこにも隙のない出で立ちをしているのは‥‥
「ひ、土方部長‥‥」
「お、早速仕事してんのか?
相変わらず仕事が早えな。」
今日から私の直属の上司になる土方部長である。

突然渡された人事異動の書類には彼の部署への異動の旨が書かれていた。

そう、この人の下。
しかも、この人のアシスタントになれという旨が。

私には一体何がなんだか分からない。
もう色んな事が分からない。
誰か私に一からちゃんと説明してください、お願いします。

「ぶ、部長も‥‥コピーですか?」
「ああ、一部、な。」
悪い、先にいいか?と聞かれ、私は場所を譲る。
なんとなく構えてしまうのは‥‥決して彼が怖い鬼上司だからじゃない‥‥いや、専ら怖いと噂だけど、私はこの人に怒鳴られた事はまだ、ない。
だけど怒鳴られるよりも私にとっては怖い、というか、恐ろしい、というか、なに、なんて言えばいんだろう‥‥とにかく、彼には構えなければいけない理由があった。

「‥‥そんなに構えなくても、会社じゃしねえぞ?」

びくびくとしている私に気付いたらしい。土方さんはコピー機を操作しながらそんな事をぽつんと呟いた。
彼の一挙手一投足を見ていたくせに、言葉には一瞬反応できない。
え?と上げた私の声に土方さんの視線はちろっとこちらに向けられる。
悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼は言った。

「そんなにビクつかなくても、会社じゃおまえにエロい事なんかしねえって言ったんだよ。」

一応、そのあたりは弁えてる、という茶化すような言葉が‥‥右から左に抜けた。
あんぐりと口を開けて、私は呆然と彼を見上げるしかなかった。
何故なら瞬間に、彼の示す「エロい事」の内容がどどーっと怒濤のように私の脳裏に押し寄せてきたからだ。
しかもそれは想像じゃなくて‥‥
過去の、記憶として。

「‥‥なんだ、忘れちゃいねえみたいだな。」

一瞬にした顔を真っ赤にして、警戒するかのように壁際まで逃げる私に彼はにやりと楽しげに笑って呟く。

忘れたくても忘れられるわけがない。
あんな‥‥あんな‥‥衝撃的な事。
忘れたくても脳みその底の底まで刻みつけられたわ!デリート不可能ですよ!
バレンタインデーの夜。
チャイムが鳴った後の、あの事は。
一生忘れられるわけがない。

「悪かったな、加減出来なくて‥‥」
しれっと、まったく謝意など感じられないような声で彼は謝罪を口にする。
でもな、と彼は言った。
「おまえが可愛いのが悪い。」
いや、意味が分かんないってば。なんで私が悪いの?
被害者でしょ、私。どう考えても土方さんが加害者じゃん‥‥
あんな、あんな‥‥

「なんで、あんなっ‥‥」

結局あの時、一度も突きつけられなかった質問を私は口にした。
彼は目を丸くして、それから、くっと喉を震わせて笑う。
「なんだ、ちゃんと聞いてなかったのか?」
しようのねえヤツだなとまるで子供にでも言い聞かせるかのような口調で言った。
ちゃんと聞いてた、でも、理解できなかった。
何度聞いたって理解できるわけがない。だって、だって‥‥

「じゃあ、理解できるまで何度だって言ってやるよ。」

こつんと爪先が床を叩く。音が近付く。
その身体が私との距離を縮めて‥‥身体はびくりと竦んだ。
竦んだけれど逃げられないのはあの時と同じ、目を見てしまったから。囚われてしまったから。
いや、囚われたいと願ってしまったから。その瞳に、腕に。

「俺が、おまえを、好き、だからだ。」
わざと聞かせるために、単語を一つ一つ、区切って、刻む。
じわりと耳が熱くなった。囁きに熱が生まれるみたいに。
「俺は、おまえが、好き、だ。」
逃げない私と彼の距離はすぐに、縮み、無くなる。
壁と身体の間に閉じこめるようにして手を着いて、彼は私の顔を覗き込んだ。
紫紺の双眸が、甘く、色を変える。
あの夜に見たのと同じ色で、私を見ている。



と彼は私を、名で、呼んだ。

あの夜、痛みと快楽を私に刻んだあの夜と同じ呼び方で、私を。
そして、

「おまえが‥‥好きだ。」

熱っぽい囁きを最後に、距離はゼロになった。


エピソード1:俺様な上司



  有能な上司と、新人のバレンタイン。
  実はあれこれ画策してたりしたという(笑)
  この後職権乱用であれこれセクハラされたり
  するんだと思います☆
  入社当初から狙ってた、とかどんだけ!

  2011.2.14 三剣 蛍