同じ課に、原田左之助という同僚がいる。
面倒見の良い兄貴分のようなその男は、さり気なく人のフォローに回るのが上手い男だった。
入社してすぐは、私もあれこれと彼に助けられたもので‥‥同期なのになんでそんなにそつなくこなすのだろうかと不思議に思ったこともある。
今では専ら教育係として新入社員を教育している彼は、勿論、一年生の憧れの的でもあった。
一年生だけじゃなく、彼に育てられたりフォローされたりした子は大抵、奴に惚れるというもんだ。
だから、
「原田さん!受け取ってくださいっ」
「あ、あの、一生懸命心を込めましたっ」
「受けとってくれるだけでいいんです!」
甘ったるいチョコのにおいと、女の子の声がオフィス中に充満する。
女の子の真ん中には勿論、長身のそいつが、困ったような顔で立っていた。
そんな彼らを見る男性社員の目は羨望に、女性社員は嫉妬に、それぞれ塗りつぶされている。
女の子には優しく‥‥それがモットーなのは良い事なのかもしれないけれど、
おかげで二月十四日は大変だ。
「くっそ‥‥」
こんな日に限ってミスをやらかした。
どうやら今日は気持ちの方が空回りしている、らしい。
新人のミスをフォローしたつもりが自分も間違えて、ミスの連鎖。
最終的には収まったものの、鬼部長にはこってりと叱られ、そのミスのおかげで発生した仕事に追われる事となった。
部長も同僚も手伝ってくれるって言ってたけど‥‥ただでさえ迷惑掛けてるのにこれ以上はさすがに申し訳ない。
ということで、事後処理は自分でやることに決めた。
「しかし、書いても書いても終わらんなぁ。」
私は人気のないオフィスで一人ぽつんと一人ごちる。
電気は私の周りだけ点けていて、後は消されていた。私一人のために部屋中の電気を点けるなんて勿体ない。
手元さえ明るければ十分なのでスタンドだけでも良かったんだけど、それだと、ちょっとしたホラー映画にも見えるので、一応、自分の周りの一角だけ点けさせてもらうことにした。
ばさ、と終わった書類の束を脇に避け、一度大きく伸びをする。
ごきごきと肩がいやな音をした。肩も目もどこもかしこも、痛い。
「んー‥‥明後日までには終わらせるって言ったけど‥‥」
処理済の山と未処理の山。
はじめた頃から考えれば随分と差は縮まってきているがそれでもまだ、未処理の山の方が、高い。
こりゃ、今日は徹夜しないと間に合わないかもしれないなぁ。
「仕方ない。」
私は溜息を零して、がららと引き出しを引いた。
困ったときの栄養ドリンク‥‥ではないが、机の中にストックがあったはず。
おっさんと言うなかれ。疲れた時の味方はこいつだけなんだから。
「‥‥お?」
完全に引ききった所でかたんと、机の中に入れて置いたそれが倒れる。
オレンジ色の、可愛らしい包装紙に包まれた四角い物。
二月十四日、バレンタインの主役。
チョコレートだ。
有名ブランドで購入したそれは、3個で1500円というえげつない値段だった。
勿論、自分用‥‥ではない。
あげるために買った。
自分で食べるのにそんな勿体ない事は出来るものか。
だけど、もうじき二月十五日が来ようとしているのにチョコレートが何故私の机の中にあるか‥‥というと、答えは簡単、
――あげられなかったのだ――今年も。
「‥‥毎年毎年、買うだけ買って渡さないとか‥‥私は一体どれだけ意気地がないんだろうねぇ。」
苦笑で独り言を漏らしながらチョコを取りだした。
そうして、例年のようにべりべりと包装紙を破くと、私は箱を開ける。
中には美味しそうなチョコが3つ並んでいた。
今年も自分で処理する事になりそう‥‥でも、美味しそうだから良いじゃないかと前向きに考えて一個を口の中に放り込む。
濃厚な味が舌の上で溶けた。
美味しい。
でも、
虚しかった。
「‥‥今年こそはって思ったのになぁ。」
今年こそは、渡そう。
毎年そんな事を思いながらそれでも惨敗し続けた。
でも、今年こそは‥‥って意気込んで、今年はいつもよりも奮発した。
気合いを入れて高いものを買えば後に退けないと思ったから。
それでも蓋を開けてみればいつもと同じ。
そんなこんなで私はもう5年以上もチョコを買っては自分で食べるという無駄な事をしている。
「いつまで続くんだか‥‥」
この状態も、自分の気持ちも。
いつまで続くんだか‥‥
私は更に虚しくなりそうな事を考えて、もう一つを口に放り込んだ。
ホワイトチョコは‥‥少し甘かった。
今の私にはあまりに不似合いな甘さだった。
「お?まだ残ってたのか。」
ホワイトチョコの甘さを消し去ろうと次のビターチョコに手を出す。
その時、突然声が飛んできて、私は思わずぎくりと肩を震わせて顔を上げた。
もう全員退社したと思ってたのに、
「さ、左之っ!?」
その人がそこに立っていた。
「なんだなんだ、おまえ、こんな時間まで残ってたのか?」
幻かと思って目をぱちくりとさせるが、ずかずかと近付いてきたその人は原田左之助その人で、何度瞬きしても消えない。
「一人で残るなんて危ねえだろ。」
何考えてんだと顰め面で私を窘める。
一応、女扱いはしてくれているらしい。
それが嬉しくもあり、ちょっと、切なくもある。
多分左之はどんな女の子だってちゃんと女の子扱いしてくれるんだろう。
「平気だって。
変な奴が入ってきても返り討ちにしてやるから。」
心配してくれた事に感謝も出来ず、かわいげのない事を言ってのける私だって‥‥同じように。
「‥‥おまえな、もうちょい女だっていう自覚を、だな。」
「自覚はあるよ。月に一回、痛感する。」
「‥‥そりゃ、逆セクハラか?」
「いやいや、存在自体セクハラみたいなあんたに言われても‥‥」
けらけらと笑い飛ばす私を、左之は顰め面で見下ろす。
茶化すな、とか言いたそうなんだけど今だけは彼に『女扱い』されるのが嫌だった。
バレンタインの今日だけ、は。
なんとなく、左之もそれに気付いたのか‥‥それ以上は追求せず、溜息を漏らすと手近にあった椅子を掴んで引き寄せた。
「左之助さん?何を?」
がさりと資料を奪う彼に訊ねれば、至極当然と言わんばかりにあっさりと返答があった。
「手伝う。」
そう言って本当に仕事をし始める彼に私はいやいやと慌てて首を振る。
「左之、あんたたでさえ今日大仕事があって疲れるでしょ?」
昨夜だって徹夜だったのを知ってる。
それなのに私に付き合って遅くまで仕事をさせるなんてとんでもない。
しかも私のミスなのに。
「二人でやった方が早いだろ。」
「や、そうだけどそうじゃなくて!」
「、ペン借りるぞー」
まるっと私の言い分を無視して、左之は身を乗り出して私のデスクに手を伸ばす。
「ん?」
伸ばして、彼は、小さく声を上げた。
眉間に皺が微かに寄ったのを私は見た。
「それ、チョコ?」
「‥‥あ‥‥」
視線の先にはバレンタインチョコ。
彼にあげるはずだったそれは、でも、もう二つも私の口の中に消えてしまっていた。
「あ、いや、これは‥‥もらったんだ。」
私は何故か、慌てて口にした。
「総務の女の子がね‥‥いつもお世話になってるからーって‥‥」
くれたんだよと笑って言うのを左之は相づちも打たずにじっと私を見ている。
「疲れてる時には甘いのが一番だよね。
いやぁ、美味しいチョコの差し入れがあってよかったわー」
嘘を口にすればするだけ、彼に見透かされてしまうような気がした。
それでも嘘を口にせずにはいられず、
私はやけくそ気味に最後のチョコをひっつかんだ。
ぽいと、口の中に放り込んで無かった事にしてしまおう。
チョコレートと共に惨めな気持ちを。
そんな私の手首を、がしりと大きな手が掴む。
なに?
と私が声を上げるよりも先に、大きな影が揺れる。
左之だった。
手首を掴んだのも、彼だった。
そして、
パキン、
四角い、ビターチョコを、音を立てて囓ったのも、彼だった。
「‥‥いつ、くれるのかって待ってたんだけど。」
かり、と口の中でチョコをかみ砕きながら、彼は少し困ったように眉を伏せて告げる。
私は一瞬、何を言われたのか分からず、え、と彼の顔を見つめた。
左之はやがてチョコの欠片を飲み込んで、これ、と更に私が持っている小さくなった欠片に歯を立てる。
「チョコ‥‥いつ、くれるのかずっと待ってたんだけどな?」
ぺき、
ともう折るほども残っていない残りを、歯で噛んで、彼は言った。
彼の言葉はまるで、
私がチョコを彼に用意していたと知っていたみたいな、
ううん、
それだけじゃない、
まるで、
私のチョコを‥‥欲しがるみたい――
いやでも、そんなのありえな‥‥
「ざっと、五年は待ったぞ。」
左之は視線を上げて、言った。
五年も、私のチョコを待ってたと。
「う‥‥うそ‥‥」
彼が待ってたはずなんてない。
そんなのあり得ない。
だってそんなの、ほら、ええ?
完全にパニックになった私は、え、だの、あ、だの意味不明な言葉を口にするしかなくて、
赤くなったり青くなったりを繰り返す内にほとんど残っていないチョコを指先で溶かしてしまう。
左之はそんな私を見てくつっと喉を震わせて笑うと、更にもう一度距離を縮めてきた。
ぎし、と椅子が音を立てて軋む。
なに?と思ったときにはチョコを掴んでいた私の指に、左之の唇が触れて‥‥
「ひ、ゃ‥‥」
そのままざらりとした舌で舐められた。
思わず変な声が出てしまったのは、仕方ない事だと思うんだ。
だって、舐められたんだよ?指を。
「さ、さのっ‥‥やめっ」
「だーめだ。まだ残ってる‥‥」
かりと指の先を咬まれ、私はびくんっと肩を震わせた。
思わず指を開いたら、一番チョコが残っていた人差し指を食べられた。
「っ!?」
ねっとりと、私の指を熱い口腔が、ざらついた舌が、吸い付いてくる。
「‥‥」
そうしながら彼の視線は、常に私を見ていて‥‥
その、熱くて色っぽい眼差しに私はくらりとした。
ただでさえ彼の『五年も待った』って言葉にパニック起こして、更には指を舐められてるっていうのに、そんな熱い眼差しを向けられて私が耐えられるわけもない。
恥ずかしさでおかしくなりそうだ――
「っ」
ただ身体を強ばらせて縮こまる私を、どこか切羽詰まったような声が、呼ぶ。
左之、と応えようとした唇は、何かが塞がれた。
ふんわりと香ったのは私が食べられなかったチョコの香りで、
「っん」
左之にキスをされていると分かったのは、開いたままの唇から彼の舌が忍び込んできた時だった。
指を舐めていたのと同じ感覚が、私の舌を絡め取り、吸い上げる。
ぞわりと腰骨あたりに震えが走って、そこから弾けるように何かが喉元までこみ上げてきた。
唇を塞がれているせいでそれを吐き出す事は出来ず、押しのければ頭の後ろに回された手がさせまいとして更に深く唇を塞がれる。
「ん、ぅむっ‥‥」
決して知らないわけではないキスが、この時はまったく知らないもののように感じた。
それほどに、左之は他の男と比べて巧みで‥‥激しかった。
キスだけで、蕩けてしまうほどに。
「あ、はっ‥‥」
気がついた時には左之の膝の上で、何が一体どうなったのか分からない。
ただ、苦しさに喘ぐ私を左之は抱きしめて、唇の端にキスを落としながら訊ねてきた。
「さっきのチョコ‥‥俺が貰って良かったんだよな?」
勝手に食べておいて今更聞くな。
脳裏にそんなかわいげのない言葉は過ぎったものの、この時の私の理性っていうのはどっかにすっ飛んでしまっていて、
「う、ん‥‥」
こくりと素直に頷いて肯定を表した。
だって本当の事だったから。
左之の為に用意して、左之に食べて欲しかった。
五年前からずっと。
彼に渡したかったものだった。
「‥‥ありがとな。」
妙に嬉しそうな左之の声が聞こえて、もう一度、啄むようなキスが贈られる。
それは優しくて幸せで、私は夢見心地で彼のキスを受け止めた。
夢でした、って言われてもなんか納得できてしまいそうだった。
「‥‥さて‥‥」
幸せに浸っていたい私を引きはがして、左之は呟く。
左之はぼんやりと見つめる私に意地悪い笑みを向けていた。
「念願のチョコももらったところで‥‥」
もらったところで?
言葉の先を促すよりも前に、するりと私の背を支えていた手が下に滑った。
「う、うわ!?ちょっ!?」
一気に夢から覚め、私は慌ててその手を掴む。
ただ男の人の力を止める事はできず、そのまま彼の望む場所まで撫でられて「ひ」と口から変な悲鳴が漏れた。
「こっちもいただいておかないと、な。」
慌てる私に左之はにやりと笑って言い放つ。
こっち、というのは恐らく『私』のこと。
私を貰う?
つまりは‥‥そういうことをするってこと‥‥か。
「ちょっと待って!」
冷静に分析してる場合じゃなかった。
気付くと左之の手がスカートの中からブラウスを引っ張り出していて、その下に手を差し込もうとしていて、私は更に慌てる。
「こ、こんな所で駄目に決まってんでしょ!」
好きだから別に抵抗する必要もないけれど、場所が悪い。
却下だとブラウスをねじ込もうとしたけれど、左之の方が早かった。
「大丈夫だって、誰も残っちゃいねえよ。」
「そうだけど、そうじゃなくて!」
必死に抵抗しようとするんだけど、くそ、コイツ手際が良い上に、的確に弱い部分を狙ってくる。
伊達に女の子と遊んでないなと若干嫉妬さえ覚えさせるそれに私の理性が快感に蝕まれるのはすぐだった。それでも、抵抗を止めない。
「し‥‥資料が駄目になったりとか‥‥」
視界の隅に入るそれが私を酔わせてくれない。
折れ曲がったり、倒れてぐちゃぐちゃになったら、私は泣くに泣けない。
っていうか、オフィスはそういうことをする場所じゃありませんー!!
必死に訴える私に、左之はへぇと艶を帯びた声で訊ねた。
「そいつは、駄目になっちまうくらいに激しくしてくれって要望か?」
頭、沸 い て ん の か
「てめ、この、エロ左之‥‥」
シーツに埋まって、私は恨み言のように呟く。
バレンタインから一日経った十五日‥‥私は本来ならば会社で資料とにらめっこしているはずだった。
なのに、何故か、家の、ベッドの上にいる。
会社はどうしたか?
休んだ‥‥
否、
休まされた――
ぎろと睨みつけるのは何故か妙にスッキリした顔の男、原田左之助。
風呂上がりの火照った身体にシャツをだらしなく羽織りながら、彼はぺたぺたと裸足で近付いてくる。
全開のシャツから覗く胸襟があまりに魅惑的だが‥‥騙されてはいけない。
あれは虫を食らうために美味しそうなにおいを出す食虫花と同じなんだ。
うっかり気を許せば食われる事になる。
「ハッスルするにも限度があるだろうが‥‥」
「ん?俺はこれでも手加減してやったつもりだぜ。」
左之は涼しい顔で言い放った。
手加減?
どこが?
あそこは痛いわ、腰は怠いわ、喉はひりひりするわ、泣きすぎて目は腫れるわ‥‥で、大変なんだぞ!!
お陰で今日は立ち上がることさえ出来ないんだぞ!!
睨み付けるだけでその気持ちを伝えようとする私に、左之はにっと白い歯を見せて、笑う。
「5年分って考えたら、マシだろ?」
なにそれ‥‥5年分の思いを一気にぶつけようとしたのか、こら。
おまえは5年分、何を考えてた?
ただ付き合っていちゃこら、じゃなく、エロっちい事を考えてたってことか。
優しい顔して、中ではとんでもない事を考えてたってことか!!
いやちょっと待って‥‥そんじゃ私、その5年分の一部‥‥は昨日から今日に掛けてぶつけられたとして、これから、その残りの数年分っていうのを受け止めなきゃいけないって事?
「‥‥‥‥」
ざあ、と青ざめる私に左之はくつくつと喉を震わせて笑う。
優しくて頼りになる同僚だと思ってたら、中身は悪魔だっ‥‥た?
「まあ、半分は冗談として‥‥」
「半分っ!?」
ぎゃあと声を上げて肩を震わせた瞬間、ずきんと下肢に鈍痛が走り、私は呻いて突っ伏した。
ぼふと枕が顔を受け止めてくれて、そこに左之のにおいがした途端言いしれぬ恥ずかしさがこみ上げてくる。
「‥‥昨夜は調子に乗っちまって悪かった。」
きしりとベッドが軋み、優しい声が降ってきて、私の頭がそっと撫でられた。
気持ちいいと思ったけど言ってやらない。左之を調子づかせるだけだと分かっていたから。
「その、詫び、じゃねえけど‥‥おまえの仕事は俺がやっておいてやるから。」
今日は無理せずに寝てろ、と彼は言った。
いや、そんなわけにはいかない。
確かに左之のお陰で起きあがれないけれど、そもそもあの仕事は私のものなんだから。
「良いから、寝てろ。」
起きあがろうとしたら肩を押された。
ついでにのし掛かられてちぅと髪に口づけられる。
頭皮にキスってやばい‥‥
うっかり、声が出そうだ。
「で、でもっ」
蕩けそうになる理性をフル稼働させて、私は枕から顔を上げた。
その時には左之はもう背中を向けてベッドから離れていて、シャツのボタンを留めながら、彼は振り返って笑った。
「バレンタイン一日、おまえのこと独占できなかった分、今日、させてくれよ。」
どきんと、胸が痛いくらいに跳ねる。
この男、きっと私を今日、殺すつもりだ――
悶え殺すつもりだ――
真っ赤な顔で口をぱくぱくさせる私を、左之は満足げに見て、ひらりと手を振った。
「帰ったら続き、するからな。」
そっちの意味でも殺すらしいことが分かったけれど――
ま、
死んでもいいかな、って正直思った私も相当頭が沸いているのかも知れない。
エピソード2:モテモテな同僚
なんだかんだとフォローをしてくれる同僚。
多分入社当時から好きだけど、お互いに言え
ずに数年経っちゃった、的な関係。
この後はわかりやすいというほど、わかりや
すい彼氏になるでしょう(笑)
2011.2.14 三剣 蛍
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